【関羽伝1】義侠の俺様系勇将


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【関羽伝1】義侠の俺様系勇将

 

 

 

 

劉備の片腕

 

 

関羽は元々は長生(チョウセイ)という字でしたが、何らかの罪を働いたのか、突如北に出奔しました。一説には、塩の密売をしていたとか何とか……

 

 

さて、こうして最北端の幽州にまでたどり着いた関羽でしたが、ある時、付近の劉備という人物が兵を集めている話を聞き、彼の元に参陣。張飛と共に、劉備の護衛として動くことになりました。

 

 

後に劉備が平原(ヘイゲン)の相(ショウ:だいたいやることは太守と同じ。郡のトップ)になると張飛共々、非主力の別動隊を率いる別部司馬(ベツブシバ)として部隊を任されるようになりました。

 

劉備はこの時、関羽張飛の二人を兄弟分同然に扱い、寝る場所も同じというほどの寵愛ぶりで、関羽も大勢が集まる席では劉備のそばを離れず護衛するという忠勤で答える等、その有り様は理想の主従といった感じだったようです。

 

 

その後劉備は平原国相を辞めて各勢力を転々としますが、関羽はその後も劉備と苦労を共にする道を選びます。

 

 

また、劉備が一時期曹操配下となった後に徐州で背いた際には、劉備に代わり主要都市の下邳(カヒ)で太守としての事務作業を代行するなど、内政面にも造詣があった事を匂わせる記述も……

 

 

しかしこの時劉備と別行動をとっていたのが災いし、曹操による劉備討伐の際に逃げ遅れて曹操軍に取り囲まれ、そのまま曹操に降伏することとなってしまったのです。

 

 

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曹操の客将として

 

 

 

こうして一時的に曹操の配下となった関羽は、曹操からいきなり偏将軍(ヘンショウグン)の地位を与えられるなど、深い恩愛を得ていました。

 

 

建安5年(200)に曹操袁紹(エンショウ)と激突すると、曹操軍の前線拠点である白馬を攻撃していた敵将顔良(ガンリョウ)の攻撃を曹操に命じられます。

 

張遼(チョウリョウ)と共に先鋒としてこの戦いに臨んだ関羽は、すかさず敵陣に突撃。顔良のいるであろう将軍旗に狙いをつけて馬に鞭を打って全力で駆けさせ、勢いのままに顔良を討ち取ってその首を持って帰ってしまったのです。

 

正史本伝の記述によると、この時の関羽の強さは圧倒的で袁紹軍の諸将で相手になる者もおらず、そのまま白馬包囲軍は包囲を解いて撤収したとか。

 

 

この一連の活躍を聞いた曹操は大喜びし、即座に関羽の手柄を朝廷に報告。漢寿亭侯(カンジュテイコウ)に封ぜられ、曹操軍の仲での立場は安泰となりました。

 

 

曹操関羽の実力と人柄を高く評価していましたが、関羽が自分の元にとどまることはないであろうことをひそかに予見していました。

 

その真意を探るために張遼を関羽に差し向けて本心を訊いてみたりしましたが、返ってきた答えは、「曹操殿には感謝しているが、やはり劉備を裏切れない」という物。

 

 

これを聞いた曹操は感激し関羽に様々な贈り物をしますが、関羽はそれらを封印。置手紙を残し、そのまま劉備の元へと帰っていきました。

 

 

関羽出奔の知らせを聞いた側近たちは関羽討伐を献策しますが、曹操は「奴なりの忠義だ」と関羽の出奔を見逃し、追手を差し向けることはしませんでした。

 

 

 

 

 

劉備の背中を守る

 

 

 

さて、無事に劉備と合流できた関羽でしたが、今度は劉備が荊州の劉表(リュウヒョウ)を頼ることになると、それにしたがって荊州に入ります。

 

 

が、建安13年(208)に劉表が死亡すると、袁紹の勢力を打ち倒した曹操が大挙して荊州に襲来。劉備はまたしても曹操から逃れることとなってしまったのです。

 

この時、関羽は水軍を率いて先行し、劉備の退路を切り開く役目を負います。

 

 

劉備はこの後曹操軍に捕捉されて退路を断たれるという危機を迎えましたが、この時は関羽が別動隊を率いていたおかげで予定とは違ったルートを辿って逃げることができ、合流して夏口(カコウ)に逃亡。さらには赤壁の戦いで孫権軍と連合して曹操を撃退することに成功したのです。

 

 

これによって一番の天敵を退けた劉備は、孫権の不意を狙って、彼らに先んじて荊州南部を平定。

 

こうしてようやくまともな領土を得た劉備は功労者に対して官爵を与えて回り、関羽に対しても襄陽(ジョウヨウ)太守として荊州の守備に就かせるとともに盪寇将軍(トウコウショウグン)の位を授けられました。

 

さらに劉備が入蜀を果たして益州の土地を手に入れると、関羽は軍事総督として荊州を一任されます。

 

 

しかし荊州の政務取り仕切りを任された潘濬(ハンシュン)らとは折り合いが悪く、これがのちの災いを生むことになります。

 

 

 

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その最期は……

 

 

 

こうして劉備勢力の中の独立軍としての地位を確立した関羽ですが、実のところ孫権の日和見な対応や関羽自身の剛直な性格が災いし、孫権ら呉の面々とは折り合いが悪く、一時は一触即発の状態になったり、魯粛(ロシュク)にやり込められて講和で領土を一部失陥したりと、同盟の水面下ではギスギスした関係が続いていました。

 

 

そして建安22年(217)には曹操軍が孫権領に侵攻し、孫権曹操軍を撃退した後、なんと曹操と講和。孫権曹操の敵ではなくなってしまったこの事件は、おそらく関羽らにとってはよろしくない影響力を与えた事でしょう。

 

 

 

そんな一抹の不安を抱えたまま、関羽劉備から前将軍(ゼンショウグン)の位と犯罪者の殺生権を示す仮節(カセツ)を受け、樊城(ハンジョウ)に籠る曹操軍の守将・曹仁(ソウジン)を攻撃。

 

 

関羽軍のほうが多勢の上士気も高く、樊城にも食料が少ないという有利な条件も重なり、関羽の軍勢は一気に曹仁を圧倒します。

 

さらに天運は関羽に味方したか、曹操が派遣した于禁(ウキン)率いる援軍部隊が偶然の大洪水により全軍が水没し機能を停止。関羽はこれ好機とばかりに于禁軍へも攻撃を仕掛け、于禁らを降伏させて、さらに龐悳(ホウトク)を斬首する大戦果を挙げました。

 

 

もはや止められるものなどいないとばかりに意気高揚する関羽軍ですが……ここで驚愕の知らせが舞い込んできます。

 

 

孫権軍が曹操の要請を受け、荊州に侵攻。

 

 

 

元々不仲で関羽討伐の機会をうかがっていた孫権でしたが、とうとうこのタイミングで牙を剥いたのです。

 

しかもこの時、関羽は「前線指揮官呂蒙(リョモウ)が病気のため本国に帰還し、代わりに来た陸遜(リクソン)は惰弱で思い切ったことができる人物ではない」という情報を得、ちょうど対孫権の守りを極限まで弱めていた段階だったのです。

 

 

こうして士気を大きく削がれた関羽軍はには曹仁救援に来た徐晃(ジョコウ)に打ち破られ、南へと敗走する事になってしまいました。

 

 

その後は主要都市である江陵に籠って戦おうと考えた関羽ですが、付近まで来てさらに驚愕の事態が目に飛び込んできたのです。

 

 

関羽との仲が最悪だった味方の糜芳(ビホウ)と士仁(シジン)はすでに降伏し、江陵は陥落。しかも関羽が到着したころには妻子まで捕らえられていたのです。

 

 

この最悪な状況を見せつけられた関羽軍は四散し、思い思いに逃亡。関羽はなんとしても逃げようと試みましたが、孫権軍の潘璋(ハンショウ)の待ち伏せを受け、捕縛。息子の関平(カンペイ)ともどもその場で斬り殺され、その首は曹操の元に送られました。

 

 

曹操関羽を丁重に、諸侯として弔ったとか。

 

 

 

 

 

 

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