【周瑜伝2】赤壁の大火
進撃の小人・曹操
無事に黄祖を討ち果たし、ようやく天下に向けて計画が動こうかという矢先、孫権軍に激震が走ります。
曹操軍が荊州を降伏させ、支配下におさめる。
もともと荊州は、魯粛が孫権の覇業に必要であると提唱した地。実際に荊州は豊かな地が広がっており、人的資源も豊富。ここを曹操に奪われたとあっては、もはや孫権の夢は途絶えたも同然と言える状況でした。
当然、孫権軍中では曹操への降伏を求める声が相次ぎ、孫策からの信任も厚かった功臣・張昭すらも降伏派の意見を唱える等、非常に切羽詰まっていた様子がうかがい知れます。
そんな降伏論圧倒的優位の中、抗戦派であった魯粛は孫権に周瑜を召喚するように提言。それを受けた孫乾の招きによって、周瑜は堂々、降伏を勧める周囲とは真逆の徹底抗戦を主張したのです。
・80万という軍勢を誇る曹操の総兵力だが、実際は曹操軍15万に荊州の兵数万を加えた程度
・荊州の兵は曹操配下になって間もないため心服しきっておらず、さらに曹操が連れてきた本隊は烏丸討伐からたった数ヶ月での長旅になり、疲れがたまっている
・それでも曹操軍本隊は陸戦になれば手強いが、水軍には慣れていないため付け入る隙はある
・加えて、西涼には強力な独立勢力が跋扈。いずれも曹操と同盟こそ結んでいるが、旗色次第ではどうなるかわからない
・冷え込む冬の時期は馬の餌となる草も無いなど準備は不完全で、そんな状態で川に入ろうものなら、疫病にかかるまでにそう時間はかからない
周瑜が曹操軍の弱点をピタリと言い当てた事により、孫権軍の議論の趨勢が逆転。孫権は自身が抗戦を望んでいたのもあり、孫権軍は曹操と相対することとなりました。
すでに軍事のトップである周瑜には、豪族たちを黙らせてしまうだけの影響力と納得させるだけの才覚があったのです。
ちなみに周瑜伝本伝では、なぜか議論の場に呼ばれていないはずの周瑜がいたことになっており、魯粛をスルーして周瑜がその場で全員を納得させたことになっています。
これには裴松之も激おこ。「最初に口火を切った魯粛の手柄を泥棒するような書き方だ」と述べています。
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赤壁の大火
こうして曹操にあらがうことを決めた孫権は、周瑜および程普(テイフ)を主将として軍を編成し、魯粛が前もって盟を結ばせでいた劉備の救援に出発。
劉備と合流後は即座に長江沿岸の玄関口である陸口(リクコウ)を封鎖し、曹操軍の上陸部隊を封殺し、水軍戦を矯正する動きを見せます。
そして水軍指揮がイマイチな劉備には後方で見物するだけに留めてもらい(!?)、孫権軍だけで数倍の曹操軍と対峙。
この戦い、数だけでは曹操軍圧倒的優位でしたが……実は曹操軍中では、周瑜の予測通り疫病が蔓延。接敵した時には既に猛威を振るって士気がガタ落ちしていたのですから、周瑜の洞察力はさすがといったところ。
曹操は数で孫権軍を押しつぶそうとしますが、練度に難がある上疫病で弱った軍ではとても勝利を得られず、緒戦は孫権軍の勝利という結末に終わりました。
こうして優位を確保した周瑜は、長江の南岸を拠点として水軍を配置。対して敗退した曹操は北岸に軍営を置いて両者は睨み合いの構図となったのです。
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さて、こうして周瑜の構想通りの状況に戦況を持ち込んだところで、古参の将である黄蓋(コウガイ)が周瑜にある提案を持ち込みます。
その内容は、以下のようなものでした。
「曹操軍は軍船を密着させて陣を敷いています。これは燃やせばトドメを刺せますな」
黄蓋からの提案を承諾した周瑜は、すぐに闘艦(トウカン:戦艦)や蒙衝(モウショウ:駆逐艦)を数十艘用意。燃えやすいように油を撒いた草や枯れ木を載せ、それを幔幕で隠して牙旗(ガキ:将軍旗)を立て、立派な船団に仕立て上げました。
さらには、前もって抗戦派を主導した周瑜や魯粛の悪口を書き記した降伏の書状を曹操に送り付けたことにより、曹操軍に受け入れてもらうための準備を万全にしました。
そして、曹操に申し伝えた降伏の当日。黄蓋は船団に模した数十艘の船の後ろに走舸(ソウカ:速度重視の小舟)を括りつけてそちらに乗り、黄蓋らは走舸の側に乗船。
そして次々と曹操軍に進発すると、走舸を切り離して一斉に船に放火。火は油によりより強く燃え上がり、曹操軍に船が激突する頃には巨大な炎となって曹操の船を焼き払います。
さらに、おりしも吹き荒れた強風にあおられ、曹操軍の陣営はさらに延焼。沿岸の陸地に敷いた陣にまで燃え広がり、被害はさらに拡大。
事ここに至って、曹操は頼れる部下らに荊州の守りを一任し、自らは今後の動乱に備え北に帰還。周瑜らは大勝利を飾ることに成功したのでした。
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南郡争奪
さて、こうして危なげなく曹操軍を撃退した周瑜ら孫権軍でしたが、まだまだ問題は山積。特に周瑜にとって大きな問題となったのが、重要拠点である南郡を守備する曹仁(ソウジン)の軍勢だったのです。
曹仁は魏でも指折りの名将で、率いる兵も猛者揃い。曹操との戦力差が大きい孫権軍にとって、この難敵と陸地で戦う事は困難を極めたのです。
周瑜は前もって甘寧(カンネイ)に別動隊をあずけて夷陵(イリョウ)の地を攻撃させていましたが、曹仁はこの周瑜の動きを確認すると、即座に部隊を編制し、甘寧の軍勢を急襲。包囲を受けた甘寧は窮地に陥り、本隊に救援を求めてきたのです。
周瑜は呂蒙(リョモウ)の提案を受け、南郡での戦線維持を凌統(リョウトウ)に一任。自ら本隊を率いて甘寧を救援。危いところでしたが、曹仁軍が退いて行ったことで甘寧の無事を確保。ほどなくして甘寧が夷陵を制圧したことにより、周瑜はなんとか優勢な状況を作り出すことに成功したのです。
その後、曹仁は戦術を籠城に切替。南郡に十分な物資が備蓄されていたのもあってしばらく膠着状態が続きました。
そんな中、曹仁は部下に無謀な奇襲をさせて案の定孤立したところをほぼ単騎で救出する珍事を引き起こして士気を向上。日を改めて総力戦を挑んできたのです。
この時、周瑜は自ら前線の指揮を行いますが、なんと曹仁軍から放たれた矢が鎖骨に命中。軍の指揮ができないほどの重傷を負ってしまったのです。
これによって孫権軍の士気が減退したのを、曹仁は見逃しませんでした。
周瑜がケガで寝込んだのを知ると、即座に軍を再編。動揺の隙を突いて、一直線に周瑜のいる本陣に向かってきたのです。
もともと不利であった曹仁軍は、起死回生とばかりに孫権軍を追い散らし、本陣に迫ってきます。
これを聞いた周瑜。常人ならば恐れをなして撤退を決めるかもしれないところですが……なんと、自ら立ち上がり、怪我をおして前線に復帰。兵を鼓舞して回り、皆の気持ちを奮い立たせたのです。
起死回生のチャンスが失われた曹仁軍は、その後すぐに包囲を破って撤退。1年にも及ぶ南郡争奪戦の結果は、周瑜の粘り勝ちに終わったのでした。
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露と消えた夢
南郡を奪取した周瑜は、偏将軍(ヘンショウグン:下位の将軍位だが、当時の孫権軍では実質トップ)、そして奪った南郡の太守として、さらには自分のための領土も与えられることになったのです。
そんなある時の事。呉では、友人である周瑜と魯粛の間で意見が割れてしまった議題がひとつありました。
それは、流浪ながら非常に影響力のある群雄・劉備の扱いについて。
彼の影響力を利用して対曹操の走狗として利用することを提案した魯粛に対し、周瑜が孫権に提案した内容は、劉備の封殺。
いかに影響力の大きな人気者とはいえ、その野心は決定的。魯粛の発言は、雑多な呉の情勢を顧みると確かに的を射たものではありました。しかし、周瑜にはその解決に使う劉備という英雄が、あまりに危険な存在に映ったのです。
「劉備には女をあてがい、宮中で完全に丸め込むのがよろしいでしょう。あの男に領地を与えるのは危険です」
しかし、この話に孫権は首を縦に振らず。孫権も劉備の危険性はしっかりと見えていましたが、だからこそ飼いならす自信がなかったのです。
結局孫権は、劉備の独立を認めながらも彼の未来の本拠となる益州攻めへの介入というどっちつかずの方針に決定。しかし、劉備にはうまく騙されて出し抜かれてしまう結果となってしまったのです。
一方の周瑜は、こんな状況を読んでいたかの如く孫権の元に再び参内。
「益州を今から攻め取ってまいります。その後、涼州の馬超(バチョウ)らと同盟。荊州を要に三方から曹操を攻めれば、我らの天下も夢ではないのです」
孫権はその言葉を聞くとすぐに周瑜を益州征伐に送り出し、劉備に先んじて益州制覇を狙い軍を走らせました。
……が、その軍を編成する途上、周瑜は突如として世を去りました。享年36。
戦略的視点からさまざまな物を見通す天才・周瑜に唯一欠けた物。それは、皮肉にも大きなことを為すための天命だったのです。
孫呉巻き返しの転機を作った立役者の死に、孫権も慟哭。
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