【周瑜伝3】イケメンは逸話も多い


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【周瑜伝3】イケメンは逸話も多い

 

 

 

 

人物評

 

 

 

周瑜は立派な風采を誇る美形だったようで、孫策の元で活躍していた時には「周郎」などとあだ名され、多くの人々から敬愛される等人望もかなり厚かったと言われています。

 

 

その上、知勇兼備で優れた才覚は天下にも通用し、曹操劉備も彼を恐れるあまり孫権との離間を目論んだという話も残っています。

 

 

 

そんな周瑜に対して陳寿が贈った評は以下の通り。

 

 

漢室を擁する大勢力たる曹操軍は、荊州を占領すると次の敵を呉に定めた。そのため孫権の軍中では多くの者が降伏すべきだという結論を導き出した。

 

しかしそんな中で、周瑜魯粛と共に、世間や他人の評に惑わされる事無く明確な見通しを立て、人々に抜きんでた存在を示した。

 

これは、真に非凡な才能がなせた事なのである。

 

 

また、その内面に関しては「寛大で人の心を掴むのが得意だった」という記述もあり、まさに人・知・勇いずれも人並み外れた傑物であったことが史書にて証明されていますね。

 

 

そのため、三国志に詳しくない人でも名前くらいなら聞いたことがあるという人も多く、三国志の好きな武将ランキングでも上位に食い込むほどの人気を誇っています。

 

 

特に地味な扱いを受けやすい呉ですが、そんな地味な呉の人気を引き上げる強烈な存在として、昨今の三国志媒介でも輝きを放っています。

 

 

 

 

……そして、妙に逸話が多いのもこの人の面白いところ。

 

 

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周瑜と程普の確執

 

 

 

多くの人からの人気を集める周瑜ですが、そんな彼をもってしても、やはりそりの合わない人物が存在します。

 

 

それが、孫堅の代から仕える古参の将・程普。

 

程普は周瑜と同じく人知勇を兼ね備えた名将でしたが、史書を見る限りその在りようはほぼ真逆。武骨な程普からすると良家のおぼっちゃまである周瑜の存在は鼻についたのか、程普は事あるごとに侮辱の言葉を並べたようです。

 

 

常人ならばここで何かしらの仕返しを画策、そのまま派閥争いにでも突入する所ですが……周瑜はあくまで腰を低くして、程普に逆らわず下手に出ることで確執となることを避けたのです。

 

 

 

そんな周瑜の姿を見て、程普はやがて考えを改めて逆に周瑜を尊敬するようになり、いつしか両者は親しい間柄に。

 

後に程普は、「周瑜との交遊は、上質な酒のように、酔ってしまってもそれに気づかない」と人に語ったとされています。

 

 

 

どれだけ侮蔑されても下手に出ようとする周瑜と、そんな姿を見て考えを改める程普。双方立派な人格者だからこそ成り立った交遊として、現在でも語られることは少なくありません。

 

 

 

 

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周瑜と内通疑惑

 

 

 

さて、先ほども軽く触れましたが、周瑜曹操劉備に離間工作を仕掛けられたという逸話があります。

 

 

曹操周瑜が若くして優れている人物だとうわさに聞くと、彼の友人である蒋幹(ショウカン)なる人物に命じて周瑜の引き抜き工作を開始。

 

蒋幹はさっそく周瑜に出会い、まずは外堀を埋めようとしますが……この時、周瑜はすでに蒋幹の目的を察知。蒋幹に対して礼を尽くすと同時に、孫権への忠誠を強くアピールし、自らが裏切る気がないことを暗に示しました。

 

そんな周瑜の態度を一通り見届けた蒋幹は結局話を切り出すことなく帰還し、周瑜の態度を賞賛したのです。

 

 

 

また、劉備孫権に対して離間工作を仕掛けたという話がありますね。

 

 

孫権軍中から帰還する際に呉の面々から宴会を開いてもらった劉備は、その機会を利用して孫権と二人きりになり、そこで周瑜をべた褒めし、孫権に疑念を抱かせようとしたのです。

 

これは劉備なりの離間策の一種。実は孫権軍ではすでに劉備勢力を潜在敵国と定めており、そのトップである劉備をどうするかで議論の最中だったのです。そんな中で、目下一番警戒すべき男が、重臣をまるで親しい人物であるかのように語れば、もしかしたら孫権の側から周瑜に疑念を抱くかもしれない……そんな思惑があったのです。

 

 

これに関しては結果は語られていませんが、その後の周瑜の動きを見ると失敗したのは明らかでしょう。

 

 

とにかく周瑜はその才覚をこれだけ危険視されていたわけですね。

 

 

 

 

 

周瑜と音楽

 

 

 

周瑜の才覚は軍事面だけではなく、金持ちの息子らしく文化にも通じていたようです。

 

その筆頭格が、音楽。

 

 

彼は音楽に精通するだけでなく絶対音感まで身に着けていたらしく、「演奏が一瞬でも間違ったり欠けたりすれば、それがどんなものでも聞き分けてしまった」という話が本伝に残っています。

 

 

そして間違いを見つけると本人も振り向いてしまうものだから、人々には「曲に誤りがあれば周郎(周瑜)が振り向く」などと言われ、ある意味音楽業界では恐れられていたとか。

 

 

 

なんでこんなことが史書に書かれているのかは謎ですが……周郎という呼び名自体、孫策の時代の物と推測されます。つまりはこんな歴史的にどうでもいい話が残るくらいに、周瑜の人気は高かったのでしょう。

 

 

 

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周瑜だからこそ

 

 

 

 

曹操はなぜか負け惜しみの言葉が多く史書に残されていたりしますが……赤壁の大敗北の際も、「周瑜に負けたんなら仕方ない。このザマも恥とは思わん」と言い切ったとか。

 

また、後に孫権に書状をよこし、「赤壁は病気が蔓延したからこっちで船焼いて撤退したんだからね! 周瑜がすごいって言うのはみんなが広めた嘘っぱちなんだからね!」という謎理論を並べたとか何とかかんとか。

 

 

 

また、君主の孫権周瑜が亡くなったと聞いたときには「これから何を頼ればいいんだ!」と泣きながら嘆いたと言われており、また後年呉帝国を建立した時も、「周瑜がいたからこそ、こうして俺は帝王を名乗れるのだ」と重臣たちに対して述懐しています。

 

と、いろいろと微妙な立ち位置にいながら最終的に孫権から信頼された周瑜ですが……後の孫権の態度を見ると、やはり周瑜だからこそ信頼されたという側面が強い気がします。

 

 

というのも、次男の周胤(シュウイン)という人物の扱いを見ているとそんな側面が顕著なのです。

 

 

周瑜には2男1女がいましたが、兄の方は早くして病没。結果的に弟である周胤が後継ぎに選ばれたのですが……彼は素行が悪く、犯罪を犯してそのまま左遷されてしまったのです。

 

 

重臣たちは、そんな周胤の姿を見て「周瑜の一族がこれではさすがに……」と思い孫権に汚名返上のチャンスを与えるように上奏しますが、孫権自身は「罪を犯して周瑜の功績を汚した罰だ。改心するための薬であり、今のまま赦すつもりはない」と返答。

 

結局周囲の進言もあって後年赦されることが決まりましたが、その決定をした直後に周胤は死去。

 

 

孫権自身、世襲に甘えることを良しとしない側面がありましたが……この周胤の例がその最たるものではないでしょうか。

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