【魯粛伝3】荊州問題と人物評


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【魯粛伝3】荊州問題と人物評

 

 

 

 

劉備との荊州問題

 

 

 

さて、もともと呉の統治が行き届きにくかった荊州をあろうことか劉備への貸与という形で手放した魯粛ですが……これはまかり間違っても、劉備がかわいそうだから恵んであげたとか、そういう間抜けな話ではありません。

 

 

この魯粛劉備の猛毒ともいえる危険性を逆に利用し、曹操を倒すまでの一時的な駒として利用しようとしていた節すらあります。

 

当然、劉備も天下への野心を持った梟雄。完全に魯粛の掌中という訳にはいきませんでしたが、益州を制した劉備に対曹操での盾のような役割を押し付けることには成功。まあだいたいは魯粛の思惑通りに事は運んでいました。

 

 

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とはいえ、益州は元々、呉の将である周瑜や甘寧(カンネイ)も目をつけ、狙っていた土地。実は孫権が益州を攻めようとしたところ劉備が猛反対したという事実もあり、益州を孫権から泥棒したとも取れる劉備の動きは、孫権にとっても面白くないものでした。

 

 

 

そんな両者の仲がギスギスし始めた時も魯粛は自軍と劉備軍の諍いを仲裁するなど友好を保っていましたが、『呂蒙伝』では劉備から荊州を奪う手筈を献策した呂蒙に対して賛同の意を示したりと、既に場合によっては劉備を攻撃することまで視野に入れていた様子が伺えます。

 

 

 

……とまあそんなこんなで当面は仲良くしつつもお互い握手した手に画鋲を仕込むような仲が続きますが……劉備が益州を攻略し、しっかりした地盤を手に入れたあたりで一気にその関係が崩壊し始めます。

 

 

 

益州が手に入ったことで、孫権劉備に貸与していた長沙(チョウサ)、桂陽(ケイヨウ)、零陵(レイリョウ)の3郡の返還を要求しますが、劉備によって拒否されます。…………ん? 3郡?

 

 

まあともあれ、この拒否を受け、さらに勝手にそれぞれの郡に長官を任命して派遣するものの、荊州を守っていた関羽に追い返される始末。

 

 

「返還の余地なし」と判断した孫権軍は、これによっていよいよ強硬手段に出ます。曹操が益州北部の漢中(カンチュウ)攻略に動き、劉備に圧力がかかったのを確認すると、なんと呂蒙を中心とした部隊が荊州に侵攻。先ほどあった通りの3郡を無理矢理占拠しようとします。

 

 

これを知った関羽呂蒙撃退のために急行し、さらには漢中が気になるはずの劉備も本隊を率いて駆けつけてくる始末。両軍はまさしく一触即発の事態に陥ります。

 

 

 

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……と、ここで魯粛はついに行動を開始。なんと荊州責任者の関羽の元に自ら赴き、護身用の刀だけを持って、お互いわずかな人数だけを引き連れて関羽との交渉に臨むこととなったのです。

 

 

 

これを俗にいう単刀会見ですね。その気になれば殺されるのは自分だというのに恐ろしい……

 

 

さて、こうして会見に臨んだ魯粛ですが……さしもの関羽といえども魯粛のような相手に論戦で敵う道理も無く、魯粛の論破で完結。

 

 

劉備殿は土地をお持ちでなかったから慈悲で貸し与えた土地を、地盤が固まった今でもまだ保持し続けるのはどういうことか。しかも譲歩して三郡の返還に留めようというのに、返す気はないのか!」

 

 

そんな魯粛の一喝に関羽の側近が「土地は徳のあるやつに帰服する。いつまでも同じ奴の元にあると思うか」と述べるとたちまちわめき散らし、怒った関羽が刀を振り上げると「国家の関わりに奴のような一部将が口をはさむとは何事か!」と怒鳴りつけて黙らせるという……まあ一騎当千の猛将相手に随分と派手に立ち回ったとされています。

 

 

『呉書』では鮮やかな魯粛の論破ショーが描かれていますが、長くなるので割愛……

 

 

 

ともあれ、曹操がそろそろ攻めてこようかというクソ忙しい時期に領土問題なんかを引っ張り出された劉備は、やむを得ず湘水(ショウスイ)という川を隔てた東側の土地をまとめて孫呉に返還・譲渡することで孫権軍と和睦。

 

呂蒙が占拠した零陵は再び劉備領ということになりましたが、元々呉が所有していた荊州領域よりもはるかに広大な領土を回収することができたのです。

 

 

 

建安22年(217)に、魯粛は四十六歳で死去。主君の孫権はもちろん哭礼(コクレイ)を行いその死を悼み葬式にも出席しましたが、なんと蜀の諸葛亮も彼のために喪に服し、しばらく活動を控えていたというのだから驚きです。

 

英雄は英雄を知るという事でしょうか……。

 

 

 

また、孫権は後に皇帝の座に就いた時、「魯粛はこうなるとわかっていたのか……。彼は先の見える人物だった」と思い返したと伝わっています。

 

 

 

 

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その人物像

 

 

 

と、こんな感じでぶっ飛んだ思想と爆弾発言、そして冷静沈着な現実主義的な対応が光る魯粛ですが……そのぶっ飛び具合は、意外にも普段の生活には現れることはなかったようです。

 

 

『呉書』には、そんな彼の私生活の様子が端的に語られていますね。

 

風貌魁偉で若くして大事を為さんという志を持っており、しばしば人が考え付かない目論見を立てていた。

 

 

人となりは方正謹厳。自らを飾り立てるのを好まず、その生活は質素なもので、人々がもてはやすようなものに興味を示さなかった。

 

また、軍の指揮はきっちりしていて禁令にも誤りはなし。

 

読書家で行軍中でさえも本を手放さず、談論や文章表現も巧みで深慮遠謀、人並み外れた洞察力を備えていた。

 

 

 

つまり、過激すぎる思想と危険な野望を持っていながらも、あくまでそれは自身の思い描く世を実現するためのもの。つまらない私利私欲を満たすためのものではないのは明白です。

 

 

 

一方、短絡的な分野での戦術、短期戦略では読み違えや誤算が多く存在しており、こういった目先の利益を追いかけるのはかなり苦手な分野だったと言ってもよいでしょう。

 

この苦手分野が、魯粛の長期戦略を毎回のように破綻に導いたわけですが……まあ、それを平気でカバーしていくのが魯粛の恐ろしいところですね。

 

 

 

しかし、そんな計算違いの逆境でも焦らずヤケにならずで、冷静な現状把握と再計算によってむしろ逆境を好機に換えていく手腕は、明らかに他者にはまねできないこと。

 

おそらく本人の頭の良さと大元の方針をずらさない志向が、味方によっては開き直りとも取れる数々の行動につながったのでしょう。

 

 

思うに、魯粛は目論見が破綻してからが本番

 

どんなにダメな状況に放り投げられても、即座に大方針を達成するまでの道筋を明白にする頭脳と、それに向けてすぐに動く大胆な行動力を持ち合わせた傑物であることに変わりはありません。

 

 

 

魯粛死後、孫権は長江を固めて自身の領土を天然の城砦に仕立て上げることに腐心しますが……これは魯粛の叩き出した帝王論をなんとしても成し遂げようとしたが為の行動なのかもしれませんね。

 

 

 

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