【魯粛伝2】劉備との誠実で素敵な同盟
荊州こそ必要な地!
独自の帝王論を説いて「何言ってんだこいつ」みたいな目で見られていた魯粛でしたが、彼の唱えたラディカルな覇道には、実は大きな誤算がありました。
それは、自身がかつて「仕えようかな」と揺れた曹操という人物のあまりの強さ、そして孫権軍の進撃の停滞です。
もともと魯粛の唱えた戦略は北が荒れに荒れている隙に荊州を取って領土を拡大するという物でしたが、荊州の玄関口・江夏(コウカ)を抑える将軍:黄祖(コウソ)に手こずっているうちに曹操が華北を制し中原一帯を完全に掌握してしまったのです。
こうなってしまえば、曹操に対抗するのもなかなか難しいところ。しかし、当の魯粛は焦るどころか冷静さと過激さを失っていませんでした。
荊州の主である劉表(リュウヒョウ)が亡くなると、彼が囲っていた劉備の反曹操の気持ちと家中の不仲に着目。
「私が劉表の弔問の使者に向かい、劉備らを刺激して反曹操の意見を焚きつけて参ります」
これを聞いた孫権は二つ返事で快諾。曹操が南下を始めるのも時間の問題であり、魯粛も昼夜兼行で荊州に急ぎますが……なんと、ここでも再びとんでもない問題が起こってしまいます。
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曹操の南下に伴い、荊州の新しい主である劉琮(リュウソウ)が降伏。
おまけに反曹操の要とも言えた劉備はすでに持ち場を脱走し、南に向かって逃走中とのこと。
早い話が、完全に魯粛の目論見は破綻してしまったのです。
もはや立て直しは不可能。普通ならば自分の失策を悔いてさっさと戻ってしまうところですが……そうはならないのがこの魯粛という男なのです。
なんと彼は、血迷ったか孫権の指示を仰がず劉備の元に急行し、独断で交渉を開始。
独 断 で 劉 備 と 交 渉 。
劉備も参謀の諸葛亮(ショカツリョウ)も孫権という思わぬ協力者の出現に大喜び。ともに夏口(カコウ)の地まで向かい、そこから使者という名目で諸葛亮を伴って、孫権に事の次第を報告に向かったのです。
ちなみに『蜀書』では魯粛は特に何もしておらず諸葛亮が孫権に直接協力を説いたことになっていて、意見が食い違っています。
裴松之はこれらを折衷して「魯粛のたくらみを諸葛亮は早くから聞いて知っていた」と考え、また、「呉蜀ともに手柄の誇示するばかりで、歴史を残そうという史書の本質を無視している」と呆れかえった様子の一文を残しています。
降伏? 笑わせんじゃねえ!!
劉備と結んだとはいえ、肥沃な戦略の要である荊州は曹操の手に落ち、孫権も曹操に攻め滅ぼされるかどうかの瀬戸際に立たされることとなりました。
孫権はこの憂慮すべき事態にどう立ち向かうかを群衆と議論しますが、出てくるのは降伏論ばかり。すでに人口の多い首都圏を抑え、さらには広大な領土の、しかもおいしいところをだいたい抑えている曹操には勝ち目がないと踏んでいたわけですね。
魯粛もこの場で言い返したところでどうにもならないと感じ、その場は黙りこくって場を治めました……が、やはりこの男、このまま終わるほど大人しい人間ではありませんでした。
なんと、意見を言うのは周囲の前でなく、孫権と二人きりの時。孫権が用を足しに出るとその後を追い、邪魔者が居なくなった場所で胸の内を堂々と言い放ってみせたのです。
「私のような名士層は、曹操の元でもそこそこ重宝され、ほどほどにやっていけるからよいのです。しかし、後ろ盾をお持ちでない殿はいかがでしょう?」
早い話が、「曹操に降ればあんたの命はないよ」という、半ば脅迫……というかモロな脅迫を、あろうことか自分の主君に向けてやってのけたのです。これぞ狂人の極み
魯粛の言葉を聞いた孫権は嘆息し、「そういう言葉が聞きたかった。お前こそ天からの授かりものだ」と漏らしたとか何とか。
ちなみに『魏書』及び『九州春秋』では、あえて降伏論を唱えて孫権を挑発、孫権が殺してやると剣を抜いた時にようやく「本心はお決まりのはずです」と本音を語ったとありますが……
これに関しては歴史家の中でも「いや、魯粛だけ斬られそうになるとかおかしい」という意見が出ており疑問視されていますね。
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ともあれ、こうして交戦論を唱えた魯粛は、周瑜を呼び寄せて彼に具体的な勝ち筋の解説と主戦論のダメ押しをしてもらい、満を持して曹操と決戦。
後に言う赤壁の戦いに大勝した後、魯粛は真っ先に返ってきました。
そして待っていた孫権に「俺が馬の鞍を支えて馬から迎え降ろしたらお前にとって十分なのかね?」と質問を受けます。
当時、主君が自ら臣下を支えて下馬を手伝うというのは、功労者への最大限の報いと言え、当時まだ校尉、それも赤壁前になり立ての魯粛には明らかに割に合わない好待遇だったのです。が……
魯粛は「全然足りませんな」とバッサリ。
「天下をお取りになりなさい。そうして安車蒲輪(アンシャホリン:皇帝が賢者を呼ぶために使う馬車)で私を迎えに来てくださったら初めて報われたと言えるでしょう」
…………言っちゃったよオイ。
繰り返しますが、当時は儒教国家であり、皇帝は「天子」と言って、神様の子供扱いされて神聖視される時代です。間違っても、それにすげ変わるなどもってのほかというのが一般論です。
こんな即刻処断間違いなしのトンデモ発言をした魯粛に対して孫権はというと……なんと手を叩いて大喜び。なんなんだこの主従は
参考にさせていただいたサイトにも「出来過ぎている」などと言われていましたし、さすがにこれは誇張ですよね。……そうですよね?
ともあれ、こうして発言権すらなかった魯粛は主戦論により一気に立場を高め、以後は重鎮として呉に尽くしていくことになるのです。
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荊州問題の火種
赤壁の大勝後、劉備から「荊州の都督になりたい」という申し出がありました。
しかし、劉備は基本、曹操に取り入って一州を得たら即裏切った前科持ち。しかもその野望は果てしなく、言ってしまえばかなりの危険人物です。
当然、群臣は皆反対しますが、魯粛だけはケロッと「いいんじゃないですか?」などと言ってのける始末。
というのも、赤壁で負けたとはいえ未だ曹操の威光は効果絶大。さらには当時、劉備軍に荊州名士が多く参入しているなど、孫権軍がこのまま統治するにはしこりの残る土地だったようなのです。
そのため、魯粛は「荊州を貸し与えるつもりで劉備と協力しましょう」という道を提唱したわけですね。
結局、孫権はこの案を承諾。荊州を得た劉備は一気に天下へと飛躍し、対曹操の心強い仲間とであるとともに、内面ギスギスな領土問題を抱える内敵として権謀術数の限りをぶつけ合う仲となっていくのです。
こうして計算違いも多くあれど大筋は魯粛の掌中で事が進む中、建安15年(210)、周瑜が西の益州攻略の途上に死亡。これによって呉は求心力を大きく削がれ、以後は大攻勢に出ることなく守りを固めることに腐心するようになります。
この周瑜の死により日の目を見たのが劉備で、以後、孫権を出し抜いて彼が一気に大勢力に浮上しますが……これもまた後のしこりとなってしまったようですね。
ともあれそんな周瑜ですが、死の間際にはわざわざ孫権への遺言で、後継者に魯粛を指名。奮武校尉の位と配下の四千人の兵、そして所領はすべて魯粛に預けられることとなったのです。
魯粛は周瑜の遺言通り、前線の江陵(コウリョウ)から退いて陸口(リクコウ)まで軍を移動。領内慰撫に努め、徳義と恩義のいきわたる政治を行い、四千人の軍隊を一万以上に膨れ上がらせました。
その後は漢昌(カンショウ)郡太守・偏将軍(ヘンショウグン)に昇進し、さらに建安19年(214)の皖城(カンジョウ)攻略にも参戦し、横江将軍(オウコウショウグン)の位にさらなる昇進を遂げたのです。
こうしていよいよ大身になって立身出世を遂げた魯粛ですが……ここから先は、劉備との薄氷の上を渡るような危険な外交戦が始まることとなるのです……。
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