【魯粛伝1】唸れ、狂人の牙


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【魯粛伝1】唸れ、狂人の牙

 

 

 

魯家の狂人

 

 

魯粛の家は代々名の売れた名士のようなものではありませんでしたが、父は実業家で。非常に裕福な家庭の出でした。

 

 

しかし、その稼ぎ頭である父は魯粛が生まれるとすぐに死亡。祖母と共に暮らすことになりましたが……まあこれがまた地に足の着いた考え方からは程遠い人物だったようで、魯粛は父が堅実に行っていた家業をうっちゃらかして崩壊。

 

田畑は売り飛ばし財貨はばらまき、事業を大きくすることよりも人々の貧困を解決することばかりに着目。

 

さらには自らが認めた有能な人物ともコネを作っておくなど、明らかにその家業の為だけにあれこれ考えればいい実業家とは程遠い、「素晴らしい人物」という名声を得るための独自の動きを見せるようになっていました。

 

 

『呉書』にはさらに明確にその事が書かれており、「剣、弓、騎馬を習い、集めた若者らと狩りや兵法の訓練にいそしんだ」とあります。

 

……つまり、思いっきり乱世に身を立てる気満々。

 

 

これを見て、里の老人たちは口々にこう言ったのです。「あの魯家にキ〇ガイが生まれた」と。

 

 

 

 

また、ある時、県の長に任命されていた周瑜(シュウユ)の来訪を受けると、彼から「米を援助してほしい」という協力要請を受けることとなりました。

 

これを聞いた魯粛は、なんと二つある穀倉のうちの一つを丸々周瑜に寄付。

 

 

「こいつ、タダモノじゃない……」

 

 

そう感じた周瑜は、魯粛とすっかり友好関係を結ぶようになり、この縁が後に魯粛の運命を決定づけることとなるのです。

 

 

 

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周瑜との縁により……

 

 

 

さて、こうして周瑜とマブダチになった恩恵は、意外にもすぐに現れました。

 

 

魯粛ははじめ評判を聞いた袁術(エンジュツ)によって召し抱えられ東城(トウジョウ)県長になりましたが、 彼のやることなすことが支離滅裂だったので「ダメだこりゃ」と見限り、大事を為せる人間ではないと見抜いて離脱を決意。

 

血気盛んな若者数百人と老人や子供らの手を引き、任地となった東城よりも南にある居巣(キョソウ)に滞在するマブダチ・周瑜の元へと身を寄せることとなりました。

 

 

また、周瑜袁術から逃れて東に向かうと、魯粛も家族を江東の大都市:曲阿(キョクア)に住ませてこれに同行します。

 

 

ちなみに袁術の影響下を脱した周瑜は叔父の元へ向かう前に親友:孫策(ソンサク)の躍進に助力しており、魯粛もこの戦いに参加、あるいは孫策配下として何らかの動きをしていた可能性が高いです。

 

「呉書」では、魯粛らの邪魔をする追手を得意の口先と武力を用いた脅迫で説得して手を引かせた後、孫策に引見。その非凡さを認められたとあります。

 

 

 

さて、こうして周瑜らと共に江東へ移り無事に安住の地を得ましたが、ここで思わぬ事態が襲い掛かります。

 

魯粛の育ての親ともいえる祖母が、病のため死去。

 

 

くだらない形式ばかりの儒教概念とか漢室への忠誠とかどうでもいいようなのが魯粛という人物像ですが、育ててくれた祖母への思いはそれとはまた別。

 

 

ここまで育ててくれた祖母の遺体を棺に納め、葬儀のために再び東城に赴くことに。喪のために孫策配下の立場を捨て、しばらく喪のために大人しくすることとなりました。

 

 

 

 

 

 

魯粛復帰!そしてさっそくぶちまけた!

 

 

 

実は魯粛は後に曹操軍の幕僚になる劉曄(リュウヨウ)という人物とも仲が良く、「鄭宝(テイホウ)とかいう男が肥沃な土地に割拠している。われわれもこれに従おうじゃないか!」という誘いの手紙が彼から送られてきました。

 

 

この手紙を受け取った魯粛は、二つ返事で快諾。祖母の喪が明けるとすぐに北へと出発しようとしますが、そんな魯粛を引き留める人物が一人いました。

 

他ならぬ周瑜です。

 

 

「今、相手を選ぶのは主君だけでない。臣下が主君を選ぶときでもあるのです。その点、我が主君:孫権(ソンケン)は配下の賢者を重宝する素晴らしい人物といえるでしょう。

 

今、密かに『江東では前の領主である劉家に代わるものが現れる』と言われていますが、これを占ったところ、主・孫権が割拠する呉の土地がこれに該当しました。つまり、ここから帝王の覇業が始まるというのです。

 

志ある者は、そういった大きな力に取り付いて、精いっぱいの力を示すべきでしょう。私は今、そのきっかけを得ました。あなたも、どうか劉曄殿のお言葉に惑わされないように」

 

 

つまり、「孫権の影響下から離脱するのは自由だけど、その前に孫権が仕えるに値するかどうか見ていかないか?」という誘いですね。

 

 

繰り返しますが、魯粛は政治と関係ない民間の実業家でありながら、狂人と言われながらも立身出世を掲げてきた人物です。

 

それらを理解した上で放たれた周瑜のこの言葉は、魯粛の胸を打つものがあったのでしょう。

 

 

ちなみにこの一連の時系列は不明ですが、劉曄は本人の伝で鄭宝に勝手に悪事の首謀者に挿げ替えられそうになって一悶着。その後諮問にやってきたのを利用し、鄭宝を斬り捨てたとあります。

 

また、鄭宝らが好き勝手出来るタイミングはすでに孫策が死去した時には失われていたことから、この話は手紙の逸話以前。つまり作られた話という説も……

 

 

また、この頃は曹操による内部切り崩し工作が行われ、孫策死後は重臣らの離脱、反乱が相次ぎました。この事から、鄭宝でなく曹操の元に来いという誘いだったという説の方が有力かも。

 

 

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ともあれ魯粛周瑜の熱い説得に感じ入り、周瑜の「この者は大業を為すのにふさわしい」という周瑜の推挙の元、孫権に会ってみることにしました。

 

 

そして孫権に出会い、面接の結果大いに気に入られたのです。その気に入りようや、宴会後にみんなが退散する中魯粛だけを呼び戻し、二人で飲み直すほどだったとか。

 

 

この時、孫権魯粛に対してある話題を吹っ掛けます。それは、「私は漢帝国復興の功労者になりたい。どうすればいいと思う?」という物。

 

要するに、「今の国を立て直したい」という質問ですね。並の者ならば、おそらくほとんどが「内部に群がる敵を打ち倒して覇業を達成しましょう!」などと月並みな受け答えをするものですが……魯粛の答えはまったく別のものでした。

 

 

曹操が漢王朝を守っている限り、無理ですな。今の最良の策は、大まかに言えば江東に割拠し、しっかりと世のほころびを見据えることです。

 

現在、北は群雄割拠の時代により荒れに荒れています。この騒乱が片付くまでの間に、我らは西の荊州までを奪取。地盤を固めてしまいましょう。

 

 

私が考える覇業は、これらを終え、長江以南を制圧した後に帝王を名乗り、天下に駒を進めていく。これでございます」

 

 

 

つまり、「今の国をどうにかよくして、その功労者として上に立ちたい」という問いに対して、「確固たる地盤を固めて新しく国を作りましょう」という答えが返って来たのです。これには孫権もびっくりだったでしょう。

 

 

ちなみに孫権はさすがにこの話題には「そこまでは考えたことがないな」とやんわり否定を示したものの、以後おおよその外交、戦略における動きは、これをベースにした戦略を取るようになりました。

 

 

 

当然、この考えは「上と古きを良しとする」儒教的考えへのアンチテーゼともいえるもの。保守派の代表格である張昭(チョウショウ)らには大いに非難し、「まだ分別もつかないガキ」とこき下ろすなど、当然並の価値観を持つ人に理解できるものではありませんでした。

 

 

しかし逆に孫権からは大いに気に入られ、魯粛の母は孫権からの贈り物だけで以前通りの生活水準で暮らすことができる程の厚遇を受けたと言われています。

 

 

 

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