【全琮伝1】有能善良なハイパー武将


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【全琮伝1】有能善良なハイパー武将

 

 

 

 

 

善人全琮

 

 

全琮の一家は、父親が元政府官僚という事もあり、裕福な豪族の出でした。父親は孫策(ソンサク)が江東平定に乗り出すと真っ先に彼に仕え、以後の全家は、孫一派の庇護の元で安寧を得ることに成功したのです。

 

 

さて、そんな家に生まれた全琮。ある時、父親から指示され、米を売り払って別のものを買ってくるという取引の任務を与えられました。

 

 

しかし全琮はどういうわけか、行くときに大量にあった米も買ってくるように頼んだ物も持たないまま、完全に文無しの状態で帰ってきたのです。

 

 

 

当然、父親は立腹。散々怒鳴り散らされる羽目になったのですが……実は事情がありました。

 

 

この時、全琮が取引に行った街では飢饉が起こっており、そのため米の値段も高騰し、名士も民も飢えに苦しんでいたのです。

 

それを見かねた全琮は、取引用の米をすべて町に寄付。速い話が、仕事を放り投げて町ひとつを救っていたのです。

 

 

 

まあこの行動を損得を無視して仁者の道を進んだ善行と見るか職務放棄の悪行と見るかは人によってマチマチですが……ともあれ、後でこれを聞いた父親は、全琮の非凡さを改めて認識。我が子の将来を楽しみにしたとか。

 

 

その後も、全琮は自分を頼って戦乱から逃げてきた名士たちを、家財を傾けて援助。最終的に全琮を頼って来た名士一家は、実に数百世帯にも及んだと言われています。

 

こういった慈善活動もあり、全琮の名声はうなぎ上りだったそうです。

 

 

 

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孫権軍のエース格

 

 

さて、その後孫権(ソンケン)によって校尉に任じられた全琮は、数千の兵を預けられて、呉の南を荒らしまわる山越(サンエツ)の異民族討伐に加わり、功績を上げます。

 

そして大々的な募兵を行い、屈強な兵士1万を余りを集め、その後は対曹操(ソウソウ)の前線基地の一つにもなる牛渚(ギュウショ)に駐屯。それからしばらくは史書に名を出していませんが、その間に偏将軍(ヘンショウグン)にまで位を上げています。

 

 

 

建安24年(219)、同盟勢力の将でありながら水面下で敵対していた関羽(カンウ)が北に軍を向けると、全琮はその機会に関羽を背後から攻撃するよう画策し、孫権に献策します。

 

この時は計画が外部に漏れるのを恐れた孫権は全琮の意見を無視することにしましたが……後々、孫権は満を持して関羽討伐に乗り出し、見事に捕縛、処刑に成功します。

 

 

これによって西方の厄介事が一つ片付い孫権はそのまま祝宴を執り行いますが、その場で全琮は孫権に呼び出され、「今回の成功はお前の献策に依るところも大きい」と全琮の働きを喜び、陽華亭侯(ヨウカテイコウ)の爵位に封じられることとなりました。

 

 

 

黄武元年(222年)に魏の曹丕(ソウヒ)が大攻勢を仕掛けてきた時も、全琮は一軍を率いて参戦。

 

敵軍の略奪に対し常に警戒を怠らず、焦れた敵が数千の軍勢を動かしたのを見極めて先行した軍に攻撃を加え、敵将を討ち取る大手柄を上げることに成功したのです。

 

 

これには孫権もホクホクで、改めて綏南将軍(スイナンショウグン)に昇進。爵位も上がり、銭唐候(セントウコウ)として生まれの地に土地を与えられました。

 

 

こういった活躍もあって、黄武4年(225)には違反者の処罰権限である仮節を与えられ、九江(キュウコウ)太守に任じられ、黄武7年(228)には陸遜や朱桓(シュカン)らと合同して魏軍の曹休(ソウキュウ)を撃破。完勝に近い形で勝利したのです。

 

 

 

この頃、しばらくおとなしかった山越の不服従民が孫権の背後で再び反乱軍を結成。

 

全琮は山越が暴動を起こしている郡に赴任、反乱鎮圧の任務を授かりました。

 

 

さて、こうして鎮圧を任された全琮ですが、ここでの彼は武力行使の類は行いませんでした。

 

 

「反乱は、先行きが不安だから起こるのではないか」

 

そう考えた全琮は、まず郡内の賞罰を明確にし、政治体制の透明化に着手。それが終わった後に、今度は大々的に宣伝工作を行い、反逆者たちの心の不安を取り除くことで再び指揮下に取り入れようと目論んだのです。

 

 

して、その目論見は大成功。賞罰が明確化し、宣伝によって良い噂が広まったことにより、不服従民は次々と帰順。数年の間に1万人余りの住民を支配下に加えることに成功しました。

 

 

孫権は全琮による暴徒鎮静化の報告を大いに喜び、再び彼を牛渚に駐屯させ、衛将軍(エイショウグン)、左護軍(サゴグン)となり、さらに徐州(ジョシュウ)牧として、魏軍を北に追いやった後にはその領土である徐州を任地にする旨を約束したのです。

 

 

 

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重鎮として

 

 

今は形だけとはいえ徐州牧となった全琮の信望は、この頃すでに並み居る重臣の中でもかなり上位……孫権からの信頼も張昭(チョウショウ)や劉基(リュウキ)といった側近と同等程度だったようです。

 

その証拠に、徐州牧就任と共に、孫権の娘である孫魯班を娶った辺り、孫権がどれだけ全琮を手元に置きたかったかがわかります。

 

 

黄龍2年(230)年、孫権は夷州(イシュウ:台湾……らしい)と珠崖(シュガイ:現在の海南省)の土地を占拠、配下に組み込もうと考えました。

 

孫権はこの計画を前もって全琮に相談しますが、全琮はこれに反対。

 

 

「確かに、占拠すること自体は難しくないでしょう。しかし、あの土地は海を隔てた向こう側。文化も違えば、異文化は時に毒となります。疫病によって損害を受けることは想像に難くありません。益を得られる確率は、おそらく万分の一でしょう」

 

 

しかし孫権は、全琮の意見を受け入れず遠征軍を発令。異国の地に軍を差し向けてそれぞれの地を占領することに成功しましたが、全琮の懸念通り疫病が蔓延。結局、戻ってこれた兵は多くて2割。ほとんどの兵士が亡くなり、孫権もこの行動を後悔する結果となったのです。

 

後にこの話を孫権が振ると、全琮は「あの場でおべっかを使うのは逆に不忠であると判断しました」と述べたとか。

 

 

 

 

さて、少し飛びまして嘉禾2年(233)。全琮は総兵力5万の兵を引き連れ、敵地である六安(リクアン)の地を訪れました。この時、「敵の大軍が来た」という事で六安の民たちは皆逃げ散り、どこかに行ってしまったのです。

 

全琮配下の将たちは、すぐに逃げた住民を負って確保すべきだと進言しましたが、全琮は首を縦に振らず、「ここで追いかけても大した利益になるまい。それどころか、迂闊に動けば危険にもつながる。ここで行動しなかったことから罰を受けることになっても、国益を損なうことはできんよ」と答え、結局人民を捕虜にすることはしなかったのです。

 

 

 

赤烏4年(241)には大都督に就任し、魏への侵攻に参加。二方面からの大規模攻撃で、全琮も一方の侵攻軍の総大将としてこの戦いに臨みました。

 

しかしこの時は蜀からの協力は得られず、呉単体での攻撃となり、苦戦を強いられます。

 

 

全琮の軍も序盤こそ水攻めで敵を撃破し、兵糧庫も焼き払って捕虜を得る等善戦しましたが、魏軍が万全の状態に近づくにつれ劣勢に追い込まれます。

 

最終的には会戦によって中郎将の秦晃(シンコウ)が戦死するなど追い込まれ、結局撤退を断念しました。

 

 

 

後々、赤烏9年(246)には右軍司馬、左軍師に就任。が、同12年に全琮は死去。後は息子の全懌(ゼンエキ)が継ぐことになりました。

 

 

 

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