【全琮伝2】二宮の変と人物像


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【全琮伝2】二宮の変と人物像

 

 

 

 

二宮の変での全琮の動き

 

 

さて、ここは全琮伝ではスルーされている部分ですが……少し二宮の変と呼ばれる孫権の後継者争いでの全琮の動きを見てみましょう。

 

 

まず、この争いは孫権の嫡男である孫登(ソントウ)が早死にしたことに端を発しています。

 

 

陸遜、顧譚(コタン)といった土着名士を中心とした面々が孫和(ソンワ/ソンカ)を支持していました。

 

それに対し、全琮は揚州以外出身の外様名士が中心となった孫覇(ソンハ)一派を率いていたのです。

 

 

 

 

とはいえ、全琮も初めはどちらにも与せず、争いを避けるように考えていたことが陸遜伝で語られています。

 

というのも、後継者争いの前触れとして、宮中や周辺の臣下たちが、孫和、あるいは孫覇に対して忠誠を誓い、一族の者を送り込んでいたのです。

 

 

全琮はそんな事態を憂慮して、荊州の陸遜に手紙で相談を持ち掛けますが……その時に返って来た返事が以下の通り。

 

 

「あんたの息子が悪い。息子殺さなきゃあんたの家は滅ぶよ」

 

 

陸遜……。まあ実際に息子の全奇は孫覇派として暗躍しており、この言ってることは後々的中するわけですが……そもそも陸遜は名門の出。相談するにしても、全琮とはスタンスが違い、すでに孫和派の人物だったのです。

 

 

これに何かが吹っ切れたのか、全琮は先述の通り孫覇派のトップリーダーとして行動。

 

恩賞をほとんど出さないなどの嫌がらせを受けたことを口実に、孫和派の顧譚らについて讒言を行い、流罪に処するなど、いつしか全琮は骨肉の争いの中心で活動するようになっていました。

 

 

その後、陸遜を憤死させるなど政争には勝利しますが、全琮の死後に状況は一変。

 

この争いは孫和孫覇の両成敗という形で決着がつきましたが、なおも続く名士層の血みどろの抗争の中で、陸遜の息子である陸抗(リクコウ)が、父・陸遜の名誉回復に成功。

 

その後もドロドロの処刑、讒言祭りが続く中、全琮の息子たちは最終的には敵地に取り残されて孤立する形となり、まさかの魏への降伏という形で全氏の争いは決着。

 

 

敵対した陸遜が英雄視されたことと、息子たちの暴走という二つの悪条件が重なり、全琮の評価は地に落ちてしまったと言っても過言ではないでしょう。すごい人なのに……

 

 

 

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人知勇を兼ね備えた逸材だが……?

 

 

 

……とまあこういう悪役の親玉みたいに言われる全琮。その性格もさぞや悪いものだろうと思われることが多いですが……実はかなりの善人

 

 

陳寿の評には、

 

慎み深く素直な性格。相手の気持ちを汲み取りながら意見し、反対意見を述べるときも相手を罵倒することは決してなかった。

 

重役でありながらも驕った態度とは無縁で、謙虚な姿勢を貫いた

 

 

とあります。要するに、謙虚で素直。至って善良で、讒言や誹謗中傷とは縁のないはずだった人物であることが伺えます。

 

 

 

裴松之も別伝では「こんな悪人について語ることなどない」とバッサリ言っちゃってますが……評価の分かれる「商売用の米を勝手に恵んだ」という一件では、「全琮ごとき小物が善意などで動くわけがない。きっと名声欲しさだ」という言葉に対しては

 

確かに親の所有物を無断で配るのは人道上問題があるだろう。

 

しかし、許可を待つほどの時間がない状況下で即座に人命を優先させたのは褒められてしかるべき行動だ。これが名声のためのコスっからい考えだと断言するのは、彼の本意から逸れた意見ではないだろうか

 

とも述べています。

 

 

また、『呉書』にも彼の人格に対して追求した一面があり、

 

勇気と決断力を備えていた。

 

敵と当たるときは我が身を考えず突撃するが、総指揮にもなると一転して冷静、慎重に行動して万全を期し、小さな利益に釣られるようなことはなかった

 

とされていますね。

 

 

 

しかし、どうも同時に八方美人でもあったようで、少し身の振り方や保身、面子といった部分に極端に疎いというか……相手の事を考えられても自分のことが考えきれず、その結果不幸を招き寄せた節もあります。

 

その最たる例が、やはり二宮の変での一連の動きと見ていいでしょう。

 

 

よりによって、実力は文句なしとはいえ息子の敵対者である陸遜に助けを求め、その結果自身が争いの渦中に飛び込む羽目になったのも、保身の才が重臣にしては欠けすぎていたのが原因と言えるでしょう。

 

 

他にも、『朱桓伝』では、極端にプライドの高い朱桓が作戦行動をめぐってブチギレした時に、全琮は弁明として「孫権様のご指示を胡綜(コソウ)が伝言してきた。その内容があの作戦だ」と述べたため、朱桓は暴走して胡綜を殺しに行き、彼をかばった側近と行動を諫めた副官を斬り殺す大惨事となったこともあります。

 

 

このように、全琮は機略や智謀にこそ優れていても、自らに押し寄せる不幸や災厄に対する危機管理能力が欠けていたと言えるかもしれません。

 

 

その結果に、彼と友人になった龐統は、彼をこう評しています。

 

 

全琮はまさに時代を象徴する英傑の一人。施しを好んで名声を敬う一大人物だが、知力はそこまで高くない

 

 

こうして保身能力やその場での事態収拾能力といった観点で見てみると、龐統のこの評価は言い得て妙と言えるかもしれませんね。

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