【孫堅伝2】反董卓連合、そして群雄割拠へ


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【孫堅伝2】反董卓連合、そして群雄割拠へ

 

 

 

 

宿敵董卓・台頭!

 

 

中平6年(189)、後漢の12代目天皇である霊帝が崩御すると、漢帝国中央部で事件が発生します。それまで外戚(皇后の血族)として大将軍の地位にいた何進(カシン)が宦官らに暗殺され、それがきっかけになって何進派に属していたグループが中央に武力介入。宦官たちを殺害して回る等の大混乱に陥りました。

 

 

その混乱を収拾し、中央の政権を奪取したのは、なんと以前から反りの合わなかった董卓。彼は何進に援軍要請を受けたのをいいことに、混乱のさなか堂々と中央に突入。そのまま次代皇帝を保護、擁立し、中央政権を奪取。そのまま朝廷を牛耳り、都・洛陽にて専横を極めていました。

 

 

 

董卓の台頭を良しとしなかった人物の数は多く、多くの州や郡で諸侯が軍を立ち上げ、反董卓連合を結成します。孫堅もこの連合に参加。因縁の相手、董卓との戦いに身を投じることとなったのです。

 

 

長沙より北上する孫堅軍は急速に規模を拡大させていき、ついには数万の兵士に膨れ上がりました。さらには日頃から自身を軽んじていた荊州(ケイシュウ)刺史・王叡(オウエイ)や、荊州北部の南陽(ナンヨウ)郡の太守・張咨(チョウシ)を謀殺し、実質的に勢力を拡大。

 

 

その後連合軍盟主・袁紹(エンショウ)の弟である袁術(エンジュツ)と合流し、彼の口添えで破虜将軍(ハリョショウグン:孫堅の伝。孫破虜伝の由来となる将軍職)、豫洲刺史の地位を手に入れました。

 

 

その後、袁術領内で兵士を徹底的に鍛え上げ、さらに部下の一人を領内に送り返して兵糧の輸送手配を完了させ……ついに、孫堅袁術の実質的な指揮下という立場で、董卓討伐に乗り出したのです。

 

 

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孤軍奮闘

 

 

さて、こうして意気揚々として立ち上がった反董卓連合軍ですが……実はやる気に燃える諸侯は存外少なく、孫堅を除いて積極攻勢に出ていたのは曹操(ソウソウ)とその一派ら、ごくごく一部だけだったようです。

 

気になる他の群雄たちはというと……基本的には酒盛りと膠着を繰り返し、来る乱世に備えて自勢力の温存ばかりを考えていたそうな。

 

 

そのため、勢いに乗る孫堅軍も思うように軍を進めることができず、案外苦戦していたようです。

 

 

ある時、孫堅が息抜きも兼ねて地元の役人会を開いていた時に董卓軍が来襲。あわやという中で孫堅が機転を利かせて堂々と行動し、そのおかげで辛うじて攻撃を受けることがなかった……という逸話も残っています。

 

 

 

 

陽人の戦い

 

 

そんなこんなであわやという場面があったもののほぼ順調に進撃を続けていた孫堅軍ですが、梁(リョウ)の東部に展開していた時、董卓軍の将・徐栄(ジョエイ)の軍の襲撃を受けます。

 

この徐栄、実は曹操の進軍を食い止め、その一軍を徹底的に打ち破った名将です。

 

 

孫堅はこの難敵相手に力及ばず敗走。数十騎のお供だけを連れて脱出、その後潁川(エイセン)の太守が捕らえられて処刑される等の大敗北でした。

 

この時、孫堅の危機に際し、祖茂(ソモ、あるいはソボウ)という人物が孫堅のトレードマークである赤い頭巾をかぶって身代わりを務め、危うくなったところで柱に頭巾を括りつけて草むらに隠れることで難を逃れたという逸話があります。

 

三国志演義では孫堅をかばって討ち死にした祖茂ですが……元の逸話ではうまく逃げおおせたのですね。

 

 

 

 

さて、手痛い敗北を喫した孫堅袁術の支援を受けて再起を果たし、再度集結した軍を率いて陽人(ヨウジン)の地に進軍。

 

ここでは徐栄ではなく、呂布(リョフ)や胡軫(コシン)らの軍勢と激突。

 

ここでは孫堅が前回と違ってしっかりと敵に備えていたり、さらには敵兵の疲労や呂布、胡軫らの仲間割れなどの有利な条件が重なり、董卓軍を大破。都尉(郡の軍事統括者)である華雄(カユウ)を討ち取り、大勝利を収めます。これが、反董卓連合軍の貴重な戦勝となったのです。

 

 

一方、連合軍の不和は健在で、将軍の一人が袁術に讒言を行い孫堅との仲を裂き、疑念を持った袁術孫堅への援助を一時取りやめるという事件が発生。この一件は孫堅自身が直接袁術に会いに行き、潔白を証明し説得。このおかげで袁術は支援を再開することで事なきを得ました。

 

 

 

が、反董卓連合軍の不和はすでに広がっており、さらには略奪により近隣の民を殺害するような群雄まで出てきており、すでに董卓という敵なしでは形式上の同盟すら保てない状況に陥っていたのです。

 

 

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そして群雄割拠へ……

 

 

諸侯の不和や野心がこうも筒抜けである以上、敵にそれを悟られないのは実質的に不可能と言っても過言ではありません。

 

そこで董卓は、連合軍の瓦解のために2つの策を実行したのです。

 

 

 

まず一つ目は、孫堅の懐柔です。

 

 

曹操軍が壊滅し逃げ延びた以上、董卓にとっての脅威は、実質的に孫堅一人だけという状況でした。

 

そこで董卓は、側近の李傕(リカク)を使者に立て、孫堅との和睦を目論みます。

 

 

が、もともと反董卓の気風の強い孫堅はこれを頑なに拒否。あくまで董卓と戦う姿勢を示します。

 

 

そして董卓孫堅懐柔をあきらめ、孫堅軍が洛陽のすぐ近くまで進撃したのを知ると……董卓は第二の策を実行したのです。

 

 

後に董卓最大の悪行として知られる、都・洛陽の焼き討ち

 

 

董卓は人民らを引き連れて西の大都市・長安(チョウアン)へ遷都・移住を実行。同時に洛陽の街に火を放ち、あろうことか漢の都を完全に焼き払ったのです。

 

孫堅はその後すぐに洛陽に入ると、董卓軍によって暴かれた歴代皇帝の墓を修復し、埋めなおしたのです。

 

 

この時孫堅は変わり果てた都に落胆して「張温が俺の言うとおりにしてくれれば」と落胆しただとか、漢帝国に伝わる玉璽(ギョクジ:帝のしるしが入った印鑑。これをかざせば、実質天に認められ帝になったも同然とすら言われる代物)を見つけて野心に胸を躍らせたなど複数史書でいろいろ言われていますが……この辺りは当人のみぞ知る、といったところでしょうか。

 

なお孫堅が拾ったとされる玉璽は鑑定したところ偽物で、裴松之は「誇ろうとするあまり逆に孫堅に泥を塗っている」とツッコミを入れていましたが……?

 

 

ともあれ董卓が自ら漢の中央から撤退し、「董卓による中央進出を許さない」という一大目標を失った連合軍は、音を立てるように瓦解。元々不仲であった諸侯はこれ好機とばかりにお互いを食い合い、世の中は群雄割拠の時代に突入します。

 

 

 

群雄割拠の波に呑まれて……

 

群雄が群雄を呑む時代に突入し、反董卓連合軍が瓦解。その後、乱世において中心となったのは、名門袁家の血を引く袁尚、袁術による兄弟間の争いでした。

 

袁術の実質的な指揮下として入っていた孫堅は、この争いでは袁術派の勢力の一つとして活動。まず手始めに、袁紹が豫洲刺史である孫堅に退行し、新たな豫洲刺史を送り込んできました。手始めに、孫堅袁術らと協力して袁紹派の豫洲刺史を撃退。

 

 

その後、お返しとばかりに、孫堅袁術の名の元、荊州に割拠していた劉表(リュウヒョウ)の攻略に取り掛かります。

 

 

劉表は迎撃のために黄祖(コウソ)を中心とした迎撃部隊を送り込みますが、精強な孫堅軍にはかなわず敗走。

 

孫堅はその後も敗軍を追撃し、ついには荊州の主要都市のひとつである襄陽(ジョウヨウ)を囲み、荊州攻略に大手を掛けます。

 

 

……が、ここまで来て、突如として孫堅の命運は立たれてしまいました。

 

孫堅は元々豪胆すぎるところがありましたが、それが災いとなって、単騎で行動しているところを黄祖軍の兵に見つかり、そのまま矢を浴びて死亡。三十七歳の時の出来事でした。

 

 

孫堅軍の首魁である孫堅自身の死により、荊州の攻略は断念。甥である孫賁(ソンフン)に率いられ、軍は袁術の元へ撤退。しばらくは孫賁が孫堅の跡を継ぐ形になり……以後、孫堅の息子である孫策(ソンサク)が袁術から独立するまで、孫家は群雄として立つ機会を得ることができませんでした。

 

 

 

 

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