【孫堅伝1】反乱鎮圧のエース級!


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【孫堅伝1】反乱鎮圧のエース級!

 

 

 

 

黄巾以前――東呉の暴れん坊将軍――

 

 

黄巾の乱で名を挙げる前、孫堅は役人として揚州の狭い範囲を拠点に活動していました。

 

 

さて、そんな孫堅17歳のある日、ちょっとした用事があったので、父と共に銭唐(セントウ)という地に出かけることになりました。

 

 

が、その途上に海賊の襲撃に巻き込まれ。行く手を阻まれてしまったのです。

 

 

 

普通ならばごたごたが収まるまで待つか、迂回でもするものでしょうが……短気な孫堅はあろうことか、父の制止を振り切り刀を持って海賊の前に躍り出て、兵に指示を出すためのジェスチャーをしているかのように刀を振り回し始めたのです。

 

 

孫堅の動きを見た海賊たちは、役所に駐屯している軍団が攻めてきたのと勘違いし、奪った金品財宝などを放置して逃走。さらに孫堅はあろうことかこれを一人で追撃。海賊の一人を殺して首を持ち帰ってきたのです。

 

 

これを見て父は驚愕。そりゃそーだ

 

後に孫堅は見込みありとして仮の立場ではあるものの尉(治安維持や軍事の統括者)の役を引き受けるようになりました。

 

 

 

 

熹平(172)には、辺境の会稽(カイケイ)で勃発した、数万単位の人民による宗教反乱を鎮圧。この時孫堅は武勇に秀でた者を千人余り率い、鎮圧軍に合流して勇戦したそうです。

 

 

臧旻(ゾウビン)という人に孫堅に関する報告を受けた朝廷は、その後孫堅をひとつの県の補佐官に任命。そこから数年、複数の任地を転々としましたが、その評判は高く、役人や人民を問わず親しまれたそうな。

 

 

 

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黄巾の乱でひと暴れ

 

 

中平元年(184)、宗教結社を秘密裏に統括していた張角(チョウカク)が、弟や自身を信じる部下らを引き連れて反乱を引き起こしました。それにつられ、張角を支持する多くの民衆が続いて各地で蜂起。国中は大混乱に陥りました。

 

この乱は後に黄巾の乱と呼ばれており、統制を失った漢帝国の威厳は失墜。群雄割拠の時代、さらにはその後の三国志の時代への引き金となったのです。

 

 

朝廷はすぐさま軍を編成し、皇甫嵩(コウホスウ)、朱儁(シュシュン)といった人物らを大将として討伐に向かわせることにしました。

 

 

孫堅は討伐軍大将の一人、朱儁(シュシュン)の要望で、彼の副官として参戦を表明。同郷の仲間たちと千人ほどの兵を募集し、朱儁の軍勢に合流。

 

討伐軍の勢いに押された反乱軍が宛(エン)の街に立てこもったときには、孫堅が先頭に立って城壁をよじ登って敵を強襲し敗北させるなど、孫堅らの朱儁軍は「敵なし」と言われるほどの活躍を見せます。

 

 

そんな孫堅の活躍を目の当たりにした朱儁はすぐさまその様子を朝廷に上表。朱儁の報告を聞いた朝廷は、孫堅に別部司馬(非主力部隊の指揮官)に任命されます。ここで、田舎者・孫堅の名声は一気に高まることとなるのでした。

 

 

 

宿敵・董卓との出会い

 

 

さて、孫堅には、どうしても許せない宿敵が一人いました。

 

 

乱世の魔王・董卓(トウタク)です。

 

 

 

その董卓との出会いが、辺章(ヘンショウ)、韓遂(カンスイ)という二人の人物が中心となって起こした反乱の際です。

 

 

この反乱には董卓が鎮圧にあたっていましたが、成果が挙げられなかったため、中平3年(186)に張温(チョウオン)という人を大将にして援軍が送られました。この時に、孫堅も張温の副官として同行していたのです。

 

張温は軍を率いて長安(チョウアン)に到着すると、漢の帝から譲り受けた詔書をもって董卓を呼び寄せ、近況を聞くことにしました。

 

が、董卓はいつになっても現れず、ようやく顔を出したのは随分と後のことでした。

 

 

さらに遅れてきた董卓の態度は不遜そのもので、誠意の欠片もないといった様子。反乱軍と癒着してるのか?

 

 

 

ともあれ、あまりにアレな董卓の態度に腹立たしさと底知れぬ不気味さを覚えた孫堅は、

 

 

1.上官である張温への不遜な態度

 

2.味方の援軍拒否などの鎮圧妨害

 

3.他ならぬ漢帝の勅書にすぐに応じず、成果も上げない不忠

 

 

の3つを理由に、董卓の処刑を提言。対し張温は、董卓が西域で多大な影響力を持っているためこの提案を拒否。孫堅は渋々董卓の処刑をあきらめることになりました。

 

 

後日、討伐軍の大軍が現れると聞いた反乱軍は降伏・離散し乱は終結しましたが……この話を人づてに聞いた董卓は、孫堅を敵視するようになったとか。

 

以後、孫堅董卓の二人は決して相容れず、敵としての道を歩むことになるのです。

 

 

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区星の乱

 

 

時を同じくして、荊州南部の長沙郡。区星(オウセイ)という人物が、漢室の勢力弱体化を機に独立し、将軍を自称。万余りの兵を率いて周囲を攻撃、支配下に加えていくという事件が発生していました。

 

中央に戻った孫堅は、この区星の反乱を討伐する任務を引き受け、そのまま太守(長官)に任命され、長沙に向かうことになりました。

 

 

長沙に着いた孫堅は、すぐに行動を開始。計略を用いて区星の軍勢を突き崩し、さらには自ら将兵を率いて戦ったため、この反乱はなんとたったの1ヶ月もせぬうちに鎮圧されたのです。

 

その後、お隣の桂陽(ケイヨウ)、零陵(レイリョウ)で同時に起きていた乱もまとめて鎮圧し、完全に周囲の反乱を鎮圧してしまったのです。

 

 

そんな孫堅の功績を認め、朝廷は彼を烏程侯(ウテイコウ:侯とは、独自領地を持つ身分。地名をもじって○○侯と呼ばれる)に封じられたのです。

 

 

こうして順調に自らの軍閥を立てては大きくしていくことに成功し、波に乗る孫堅でしたが……この後、彼は予想だにしない出来事に遭遇してしまうのです。

 

 

 

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