【孫堅伝余談】評価、逸話


このエントリーをはてなブックマークに追加

【孫堅伝3】人物評価と各種死因と

 

 

 

 

 

孫堅の人物・評価

 

 

呉録という書物によると、「容貌は立派で、普通の人がやらない特異な事を好んだ」とあります。つまり、ワイルドタイプのイケメンで変わり者……という認識でだいたい大丈夫かな?

 

しかし、性格に関しては「闊達」……つまり度量が大きく自由奔放なタイプだったので、人々にも親しみやすかったようです。

 

 

内気タイプの変わり者はだいたい嫌われるのが常ですが……こういうタイプは、なぜか逆に好かれるという不思議な特性を持っていますね。

 

 

孫堅もそんな「好かれる変人」タイプの筆頭格だったようで、役人になった際にも「民衆や役人に常に慕われた」「どこに行っても評判が良かった」とあり、さらには実力を見た上司や上官はことごとくが妬みを持ち出さず、素直に孫権の活躍を褒賞してくれています。

 

つまり、上にも下にも好かれる人たらしの才能もあったようですね。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

さて、史書である三国志を編纂した陳寿(チンジュ)は彼をこう評価しています。

 

「勇敢にして剛毅。己の力ひとつで身を立てて、董卓を討つよう進言し、董卓に荒らされた洛陽の墓陵を復旧した。忠義と勇壮さを兼ね備えた烈士である」

 

 

さらに、後世信憑性を問わず様々な逸話を広め、自らの注釈や意見も入れて三国志を膨らませた裴松之(ハイショウシ)も、

 

「同時代に義を成さんと立ち上がった人々の中で、忠義と武勇は随一であった」

 

と、太鼓判を押しています。

 

 

 

さらには同年代のナチュラルボーン公孫瓉(コウソンサン)も、彼を

 

董卓を蹴散らして歴代皇帝の墓や霊廟を立て直した功績は計り知れない」

 

と述懐したとか。

 

 

おおよそ、「董卓を相手に善戦し、董卓の手で暴かれた歴代皇帝の墓を元通りにした」という功績によって当時の人々の心をがっちりとつかんだわけですね。

 

この辺りの行動が大々的なアピールとして働き、さらに董卓相手に力戦したこともあって、「忠義と武勇は天下一」というような評価がなされていたのでしょう。

 

 

実際にこの部分は三国志系メディアにもよく取り上げられ、野心家のように書かれることこそあれ、おおむね「武断派で、漢室の立て直しを図る熱い漢」のような設定で登場することが多いです。

 

 

 

が、そんな彼にもとんでもない欠点があります。

 

これに関しては「三国志孫破虜伝」に、しっかりと陳寿さんが記載してくれていますね。その一文がこちら。

 

 

「行動が軽はずみで、結果をいち早く得ようとしすぎるきらいがあった。その性格が災いとして、最期の大失敗を招く原因となったのだ」

 

 

最期の最期に倒したはずの黄祖の手で殺される逸話なんかが、特にこの性格を表していますね。

 

 

他にも銭唐で海賊につかまったときもイチかバチかの賭けに出ていたり、西方と癒着している疑惑もあった董卓を、西方での反乱が本格化してしまう可能性があるのに斬ろうとしたりなど……結果論で孫堅が正しかった話ではありますが、「孤立覚悟で突出しまくる」という癖は、あちこちで見られます。

 

 

そういった短所を備えていたので、近年の三国志ヲタたちの間でも、おおよそ「荊州で生き延びてもどこかで討死してたのはほぼ確定じゃなかろうか」という意見がだいたい固まっていたりいなかったり……

 

 

ちなみにこの性格は息子たちにもしっかり受け継がれており、この後呉国の領土の礎を築いた孫策(ソンサク)は軽はずみな単独行動の末に暗殺されており、その弟で初代呉皇帝の孫権(ソンケン)も血気盛んな性格で、特に晩年は名士層との折り合いは最悪に近い状態にまでなってしまったのです。

 

他の弟たちも、部下により暗殺、曹操の血族になるも何故か早死に、不手際により孫権と不仲になり王族扱いされなくなると、これまたなかなかに壮絶な人生を送っています。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

その性格は野心家? 忠臣?

 

 

と、ここまでご覧の通り、「剛毅で勇猛果敢だが、一軍の大将としては軽率過ぎる」というのはほぼ間違いありません。

 

 

さらには勇猛なだけでなく頭の回転も速く、危機的状況も数々の機転で乗り切ったり、区星の反乱に関しても詳細はわからないものの様々な「計略を駆使して短期決着を実現した」ともあります。

 

 

知勇兼備だが猪突猛進で、一手先が見えても二手目以降が見えていない……案外、そんな性格なのかもしれませんね。この辺主君の袁術とそっくりだ

 

 

さて、その上でよくわからない部分もありまして……

 

 

どうにもこの孫堅、洛陽の墓陵を立て直した際に、伝国の玉璽……つまり、帝が公務用に使う印鑑を持ち逃げしたという話があるのです。

 

 

当時、帝は「天子」とも言われ、民衆からは常に絶対視、神聖視されていました。

 

当然帝の印鑑も、もはや神具の領域にまで価値が上がっており、「これさえあれば天下がとれる」とまで言われていた代物です。

 

 

実際に呉の末期には、この玉璽を「孫堅が拾ったものだ」として呉王朝の正当性を主張する材料にされていましたし、多くの歴史家も言及しています。

 

裴松之はこの事実を否定し、その際には「あんな代物を持ち出したのなら、間違いなく腹に一物抱えてい事になり、孫堅が忠義の士などではなくなる」「呉の連中はこぞって正当性を掲げているが、逆に孫堅の美徳を傷つけている」と痛烈に批判しています。

 

 

 

もっとも、孫堅が拾ったとされる玉璽に関しては、玉製でなく純金製であり、本物の玉璽と違うバッタモンだったというオチが付くわけですが……本物の玉璽は見つかっておらず、未だ真相は謎のまま。

 

 

孫堅孫堅で、朱儁や袁術ら多くの実力者に口添えしてもらってどんどん地位を挙げていますし、独自の軍閥も率いています。さらには王叡、張咨といった当時の上司たちを謀殺している辺り、野心がないとは言い切れないところがあります。

 

 

玉璽に関してはかなり怪しい話ですが……案外、玉璽と関係なしに野心があったのかも……?

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

その死因について

 

 

さて、孫堅の事績を辿るにして、その死因は「敵と偶然遭遇した結果、矢を受けて戦死」とさせていただきましたが……実はまだまだ死因に関して言及されている文献は存在するのです。

 

 

まず、典略(魏略・曹魏の歴史と正当性を説いた歴史書)という書物に関してはこちら。

 

 

劉表は黄祖を夜中に襄陽から脱出させ、付近で兵を集めさせた。

 

 

孫堅はこの行動を読んでおり、戻ってくる黄祖を待ち伏せして撃破した。

 

しかし敗れた黄祖を追撃する中で、逆に黄祖から伏兵の奇襲を受け、矢によって射殺された。

 

 

また、後漢末の軍閥や群雄について描いた「英雄記」でも死因に関する記述は異なっており、こちらでは、

 

 

呂公(リョコウ)という人物が山沿いに伏兵を設置し、そこに武具も固めず軽騎で近づいてきた。

 

呂公はすかさず伏兵での奇襲を実行し、さらに落石で孫堅を攻撃。この落ちてきた岩が孫堅の脳天を直撃し、脳髄を露出するほどの傷を受けて即死した。

 

 

とあります。

 

 

 

つまり、

 

1.高祖と偶然居合わせて射殺

 

2.勝ちに乗ったばかりに黄祖の罠にかかって射殺

 

3.呂公が張った落石の罠で即死

 

 

と、このうちのいずれかというわけですね。

 

 

ちなみにその後、黄祖は孫策孫権に父の仇として何年も命を狙われて彼らと争っており、どの説にしても黄祖が密接にかかわっていることは間違いありません。

 

 

とすれば、可能性が高いのは1か2か。3の説にしても呂公はおそらく黄祖の配下である可能性が高いという事になります。

 

 

もっとも、どの説であるにしても、孫堅のフットワークの軽さが最期の最期で仇となったのは確かなことです。

 

 

 

【孫堅伝3】評価、逸話   

   

 

 

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 6巻

 

正史 三国志〈6〉呉書 1 (ちくま学芸文庫)

中古価格
¥843から
(2017/11/12 20:53時点)

 
このエントリーをはてなブックマークに追加

関連ページ

【孫堅伝1】反乱鎮圧のエース級!
孫堅は江東の辺境出身の豪族で、中央の目を盗んでの勢力拡大も容易であった孫堅。このまま中央から隔離した独自勢力を持つなら不足はありませんでしたが……
【孫堅伝2】反董卓連合、そして群雄割拠へ
孫堅が最も目立っていたのは、おそらく董卓とのいざこざや、彼との戦いの場面。が、最期は己の軽率さが災いとなって……

ホーム サイトマップ
お問い合わせ