郭淮


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【郭淮伝1】病に負けず、西方戦線ピンチヒッター

 

 

 

 

病気に愛された知将

 

 

 

郭淮は曹操(ソウソウ)の時代に取り立てられ、はじめは冀州(キシュウ)平原(ヘイゲン)の丞(ジョウ)、つまり地方官僚という文官スタートでした。

 

しかし曹丕(ソウヒ)に気に入られて彼の護衛官となり、後に曹操にも才覚を認められて直属の軍務官に転任。そのまま西方の漢中(カンチュウ)討伐に赴き、無事平定されると、夏侯淵(カコウエン)を主将とする漢中防衛軍に組み込まれることになりました。

 

 

建安23年(218)、ついに劉備(リュウビ)による漢中攻撃が本格化。夏侯淵をはじめ守将らは皆、大事な要衝を守るために奮戦します。

 

そしてこの時の郭淮は……なんと運悪くも重病にうなされ、安全地帯で一回休み。病のせいで動くこともままならず、劉備らの策に夏侯淵が嵌って討死する様を、みすみす蚊帳の外から眺めている事しかできませんでした。

 

 

郭淮が病に臥せっている間に大将の夏侯淵が討たれたことで、軍内部は指揮系統が大混乱。誰の指示を受けるべきかわからず、兵卒たちは恐慌状態に陥ってしまいました。

 

この時に病が快癒したかまだまだ引きずっていたかは知りませんが……この緊急事態に他の諸将と共に招聘を受け、郭淮は以下のように進言します。

 

 

「張郃(チョウコウ)将軍は、劉備をも恐れる名将。彼ならば、きっと軍をうまくまとめてくれるでしょう」

 

 

同席していた杜襲(トシュウ)もこれと同意見を発し、結果、張郃は大将代理として兵をうまく引き締め、半壊の軍は勢いを取り戻しました。

 

また、郭淮は「勢いに乗る劉備をあえて誘い込むように陣を敷けば、もし攻められても撃退は可能です」と防御陣形に関する進言も行って、結果として曹操軍本隊が到着するまで耐え抜くことができたのです。

 

 

 

 

 

ま た 病 気 か

 

 

 

曹操が亡くなって曹丕が王位を継ぐと、郭淮は関内侯(カンダイコウ)に取り立てられ、後に世を騒がす山賊を討伐。治安維持に貢献します。

 

 

そしてその数か月後に、曹丕は帝に即位。郭淮はそれを聞いて祝辞を述べに行こうと都に旅立ちましたが……またしても道中に病を得てバタンキュー。天丼?

 

都までの距離を算出して休めるだけ休んでから出発しましたが、郭淮が到着した時には既に祝賀の大宴会が始まっており、郭淮が遅刻したことを曹丕は大変不愉快に思ったのです。

 

「おい郭淮、随分遅かったじゃないか。昔の王朝では諸侯を集めた時、遅れた者を死刑にしたという話があったが……この天下を上げての慶賀にそれ以上に遅れてくるとはどういうつもりだ?」

 

さて、病のせいでとうとう一歩間違えば死という状況に追い込まれた郭淮。しかし、彼は涼しい顔で曹丕の詰問に返答をしました。

 

「私が聞きますに、その話は天下の風紀風俗が乱れた時に、引き締めるために行った事とか。今の魏はそれ以前、道徳と教化によって導く黎明期。よって、罪を免れ得るものと私は思っておりました」

 

 

つまり、遅れれば死刑という厳しい刑罰を立てる必要がないほど、魏の政治はしっかりしていると褒め称えたわけですね。

 

下手な言い訳よりもよほど気持のよいおだてに曹丕は気を良くし、郭淮を重用。雍州(ヨウシュウ)刺史の代行として取り立て、爵位も射陽亭侯(シャヨウテイコウ)となります。さらにその五年後には、郭淮は雍州刺史の本職に格上げされることになったのです。

 

 

辺境を守る役割を負った郭淮は、まず羌族による反乱を鎮圧。その後、帰順してきた部族は親戚関係や男女比、年齢まで調べ上げ、その心情をしっかりと汲み取った質問をして周囲を驚かせたとか。

 

ちなみに肝心な時に病気にかかる不運はこの間に克服したらしく、その後は病に邪魔されるという記述はありません。

 

 

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北伐戦線・対臥龍

 

 

 

太和2年(228)、それまで軍備と反乱鎮圧に徹していた蜀は、ついに諸葛亮(ショカツリョウ)を中心として北伐を開始。雍州の西隣である涼州(リョウシュウ)の一部を寝返らせて周辺の異民族も動かし迫ったため、魏の西方戦線は戦慄しました。

 

諸葛亮はこの時、愛弟子の馬謖(バショク)を魏軍足止めの先陣に起用。その後ろには高祥(コウショウ:高翔の間違い?)が布陣。魏から派遣された援軍の張郃らを万全な態勢で迎撃を目論んだのです。

 

 

郭淮はこの時、足止め部隊の馬謖は張郃に任せ、自分は後方にいた高詳を攻撃。双方ともこれを撃破し、諸葛亮を撤退に追い込むことに成功します。また、その後は隴西(ロウセイ)で蜀軍についた羌族の名家を討ち、建威将軍(ケンイショウグン)に上り詰めました。

 

 

その後、太和3年(229)や太和4年(230)の北伐では、辺境に侵攻した陳式(チンショク/チンシキ)や魏延(ギエン)と対峙。いずれも敗北を喫して領地を奪われていますが……魏にとっては大した痛手でもなかったようで、魏書では特に触れられていません。

 

 

そして太和5年(231)、今度は再び諸葛亮が自ら出陣。郭淮らは先遣隊として諸葛亮と激突するも敗退。後に司馬懿(シバイ)が本隊を率いてやってくるものの、この時は不作のせいか周辺地域では兵糧の備蓄がなく、諸将は「大規模輸送をさせよう」と議論になるほどでした。

 

しかし郭淮は、周辺の異民族を手なずけて彼らから兵糧を調達。輸送や提供をすべて公平かつ効率的に行ったことで、不足気味の兵糧を大量に確保。おかげで諸葛亮との不要な正面対決を避けて粘り勝ちすることができ、郭淮は揚武将軍(ヨウブショウグン)に転じました。

 

 

 

そして青龍2年(234)に諸葛亮が再び大軍を率いて攻めてくると、総大将の司馬懿と共に郭淮も出陣。この時司馬懿らは諸葛亮に穀倉地帯を奪われないために強行渡河。川を挟んだ南側の豊かな土地に陣を敷き、諸葛亮による食料収奪を防ぎました。

 

しかし、これによって北岸は手薄になり、司馬懿らは川の北側を諸葛亮に奪われる恐れがあり、それによって本拠へと直接攻撃を仕掛けられる可能性がありました。

 

郭淮はそれを危険視すると、周囲に対し北岸の再制圧を提案。諸将は難色を示すも司馬懿がこれに同意したことで、郭淮は部隊を率いて北岸へと陣地を構えることにしたのです。

 

 

かくして郭淮が北岸へと向かって数日後、それを察知したかもともと奇襲を行うつもりだったのか、蜀軍の大軍が、まだ準備の整っていない郭淮の軍を強襲しましたが、これを迎撃し撃退。

 

後に諸葛亮が大軍を率いて別方面に進軍する構えを見せましたが、郭淮はその陽動に乗らず北岸の陽遂(ヨウスイ)を堅守。かくして蜀軍は数日後に攻撃したものの、郭淮軍の備えの前に攻めきれず後退。

 

 

後に司馬懿の思惑通り持久戦に持ち込み、後に諸葛亮が死亡したことで蜀軍は撤退し、魏軍は再び蜀の北伐を防ぐことができたのです。

 

 

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北伐戦線・対麒麟

 

 

 

諸葛亮の死後、司馬懿は中央に召喚。以後、郭淮は自らが西方の総大将として働くことになります。

 

 

正始元年(240)、蜀の北伐派主力武将である姜維(キョウイ)が、隴西に進軍。郭淮はこれを阻止するために出陣、撃退に成功します。また、返す刀で魏に反逆した異民族の兵らもすべて討伐。

 

自分たちに従ってくれた氐(テイ)族の部族を移住させ、彼らを鎮撫。また、涼州の異民族らがこぞって帰順した際も、安定(アンテイ)に住む場所を与えて彼らに西方防衛の任務を与えました。

 

 

このように姜維だけでなく異民族らにもよく対応したため、郭淮は後に前将軍(ゼンショウグン)に昇進。しかし、引き続き西方の慰撫防衛を任されることになったのです。

 

 

 

正始4年(244)には、功を焦った曹爽(ソウソウ)が腹心の夏侯玄(カコウゲン)らと共に蜀の討伐を画策。郭淮もこの作戦に組み込まれて夏侯玄軍の戦法を任されましたが、どうにも勝ち目が薄い。

 

郭淮は形成の不利を感じ取って即座に行動。軍を手早く撤退に導いたため、魏軍は大敗を免れたのです。そんな郭淮に対して、魏は軍事の処罰権を示す節(セツ)を与え、より重んじてやったのでした。

 

 

正始7年(247)には、再び蜀が北伐を開始。これに先んじて周辺の異民族が一斉に魏に攻めかけ、各城が包囲される事態になりました。

 

また、夏侯淵の次子である夏侯覇(カコウハ)もこの時に出陣していましたが、姜維は領内の混乱の隙に夏侯覇の軍勢を強襲しようと目論んでいたのです。

 

郭淮はそんな姜維の目論見を看破。「先に異民族をどうにかすべき」という意見を押し切って夏侯覇を救援。かくして奇襲に失敗した姜維は撤退し、魏は異民族討伐に専念することができたのです。

 

 

 

 

とはいえ、白星ばかりともいかなかったようで……明帝紀(曹叡伝)に引く『魏書』には、郭淮敗北の記述もあります。

 

景初2年(238)、郭淮は反乱を起こした郡に対し二方向から攻めかかる挟撃策を実行。これを聞いた曹叡は「危険だから作戦を取りやめよ」と勅使を出したものの、勅使が着く前に敗北してしまいました。

 

この時は郭淮側の指揮官も一人戦死しており、なかなかに痛手だったことが見て取れます。

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