【華歆伝1】潔白名士、激動の生涯


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【華歆伝1】潔白名士、激動の生涯

 

 

 

 

 

 

華歆、揚州に行く

 

 

華歆の生まれた高唐は格式高い都市で役人たちもその自負が強く、盛り場で遊び歩く者がいないくらいの謹厳な場所だったと言われています。

 

華歆もその都市の一員として役人になり、休日になると即行で帰って家の門を閉ざして休むという灰色儒教社会においては大変素晴らしい態度で仕事にあたっていました。

 

 

議論においても相手を傷つけないよう発言に注意しつつも公平に行うなど、優れた人物であったようです。

 

 

『魏略』ではこういった華歆の様子を当時の人々が評価した様子を記載されています。管寧(カンネイ)、邴原(ヘイゲン)という役人らと共に一匹の龍に例えられ、華歆はその龍の頭としてもてはやされるようになったそうな。

 

 

 

若かりし日は病気によって仕事を辞めたことなどもありましたが、後に病気のため仕方なく遠方への転属をやめて立ち寄った南陽(ナンヨウ)にて袁術(エンジュツ)によって引き留められることになりました。

 

この時都では董卓(トウタク)が暴政を働いていたので華歆はこれを止めるように進言しましたが、袁術はこれを却下。

 

 

結局見切りをつけた華歆は、たまたま朝廷から派遣されてきた馬日磾(バジツテイ)に見出されて属官となることで袁術の元を離れ、彼と共に東の徐州(ジョシュウ)へ。

 

そして徐州に着いた後に朝廷からの任命を受け、揚州の1郡である豫章(ヨショウ)の太守を任され、ここで華歆は長江を渡り、江東の地へと向かったのです。

 

 

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中央へ帰還

 

 

 

こうして揚州の豫章郡を統治することになった華歆ですが、その統治は簡潔そのもの。

 

儒教では儀礼を重視するとともに雑多な条例やまどろっこしい取り決めもマイナスになるとされていますが、華歆の政治はそんな儒教において理想と言えるものだったのです。そのため華歆は多くの住民や官吏に喜ばれたとされています。

 

 

さて、こうして平穏な統治を行っていたある時、江東を治めんと躍進する孫策(ソンサク)が各地を平定。揚州刺史の劉繇(リュウヨウ)を追いやり、ついに華歆の治める土地まで迫ってきました。

 

 

華歆はそんな孫策にかなうまいと予想し、彼への降伏を決定。隠者を意味する頭巾をかぶり、孫策に目通りしたのです。

 

一方の孫策も、華歆が高名な名士であることから上客として丁重に扱い、彼を敵将でなく名士として手厚く保護しました。

 

 

こうして江東の孫家でしばらく世話になった華歆でしたが、孫策が死ぬと彼の陣営に対する曹操の引き抜き工作が激化。華歆も曹操から戻ってくるように懇願されたのです。

 

 

孫策の後を継いだ孫権(ソンケン)は「曹操によって家臣団をこれ以上滅茶苦茶にされてたまるか」と華歆の引き留めを試みますが、「孫権様が曹操とより懇意になり、後顧の憂いを断つためです」という華歆の言葉を受け、説得をあきらめることに。

 

 

 

こうして中央に帰ることになった華歆には、地元民から大量の餞別が贈られてきました。

 

華歆は餞別の品をすべて二つ返事で受け取りましたが、密かに品の全てに付箋を貼っており、出発の時になってそれらを元の持ち主に返してしまったのです。

 

曰く、「せっかくの用意してくれた物だから受け取りたいが、如何せん荷が予想以上にかさんでしまった。多すぎる荷は逆に持ち運びに苦労するだろうから、気持ちだけ受け取って餞別の品は返すことにする」。

 

 

こうして曹操の元に出仕した華歆はそのまま曹操軍の臣となり、以後は彼の元で高官を歴任することになったのです。

 

 

 

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高官華歆

 

 

 

さて、こうして曹操の元にやってきた華歆は、高名な名士として重宝されたようです。

 

人材層の厚い曹操軍において議郎(ギロウ:皇帝の近侍官)、侍中(ジチュウ:皇帝の顧問応答)と要職を歴任。荀彧(ジュンイク)が亡くなるとその後任として尚書令(ショウショレイ:宮中文書の発行役)まで任される等、その能力に関しては相当なものだったことが伺えます。

 

 

後に曹丕(ソウヒ)が曹操の後を継ぐと魏の相国(ショウコク:内閣総理大臣のような仕事)となり、魏が漢に代わって帝国となると今度は司徒(シト:民事の大臣。相国から改名)になりました。

 

この時国家の要職として、同格には鍾繇(ショウヨウ)、王朗(オウロウ)の2人がいましたが、曹丕は彼らを並べて「彼らこそが1代の偉人。後を継ぐのは難しいだろう」と語ったことが鍾繇伝にあり、ともかく華歆はそれほどの信任を得たという事になります。

 

 

黄初4年(223)には、ともに賞されながらも清貧を貫いて陽の目を見ていなかった管寧を召し出そうとしましたが、管寧はあくまで製品を良しとして高官につくのを嫌ったため、この話はお流れに。

 

 

 

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黄初7年(226)には曹丕が亡くなって曹叡(ソウエイ)が跡を継ぎ、太尉(タイイ:軍事最高責任者)に転任し、領土も大幅に加増。

 

しかし華歆は老齢なのに政治の最前線に出ていることを本気で悩み、隠居を申し出ようとしました。

 

 

しかし華歆を頼ることをあきらめなかった曹叡に「普通の聖人ならそうするのが正しい。が、君は彼らと違い力もある」と説得を受け、高官に居続けることを決めたとか。

 

 

太和4年(230)には西方の総大将である曹真(ソウシン)が蜀への一斉攻勢を開始。曹叡もこれを鼓舞するため行幸を考えましたが、華歆はそもそも戦争に消極的な姿勢を示しました。

 

 

「敵には要害があり、そこを超えるのは戦うのも補給も難しいと言えるでしょう。聞けば今年は兵役が多く、農業がおろそかになっているとか。国の繁栄は内政が主。付け込む隙など、無理に作らずとも待っておればよいのです」

 

 

これを聞いた曹叡も「爺さん、父さんが無理だったこと、俺に成し遂げられると確信できるはずもない。まだ天機が来ていないのなら、俺も攻めるのを慎みたい。君の言い分は謹んでしっかりと受け止めよう」と語ったとか。

 

そしてその後、遠征は突然の大雨により中断。魏は再び防戦に切替え、機を待つことにしたのです。

 

 

その翌年、華歆は病気のため、75歳で死去。敬侯と諡されました。

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