【張郃伝2】蜀キラーストロング


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【張郃伝2】蜀キラーストロング

 

 

 

蜀キラー覚醒!からの……

 

 

 

さて、曹操が亡くなって曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐと、張郃は左将軍(サショウグン)となり、爵位も都郷侯(トキョウコウ)に昇進。さらに曹丕が帝になると、今度は鄚(バク)侯となり、故郷の地を拝領することとなりました。

 

 

また、勅使によって曹真と共に西方の不服従民を討伐した後、今度は江陵(コウリョウ)攻略を目標とする南の戦線に移動。夏侯尚(カコウショウ)を大将とする南征軍の別軍として活動し、長江の中州にある砦を奪取しました。が、江陵の守りが固く、本隊が作戦を遂行できずこの戦いは失敗に終わりました。

 

 

さらに時が動いて、曹丕の息子、曹叡(ソウエイ)が帝位を継いだ時。この時、張郃は司馬懿(シバイ)と共に荊州に駐屯し呉との戦いで戦果を挙げていましたが……そんな折、ついに諸葛亮による北伐計画が始動。

 

 

張郃はここで再度対蜀の最前線を任され、功臣の証である特進の位を授かって諸将と共に進軍。諸葛亮が差し向けた足止め部隊の馬謖(バショク)軍と対峙します。

 

 

この時、馬謖は地形的に有利な山頂に布陣して張郃による正攻法を封殺する構えを見せていました。並の将ならばおそらく攻めあぐねっていたでしょうが……当の張郃は至って冷静。迅速に馬謖軍のふもとを抑えて水源を絶ち、干上がった馬謖軍を攻撃して大破してしまったのです。

 

足止めの馬謖が敗れたことにより、諸葛亮の計画はご破算、そのまま撤退していきました。そして蜀軍に占領された土地は完全に魏軍内で孤立し、後は消化試合とばかりに失地をすべて回復し、第一次北伐は魏軍の勝利で幕を下ろしたのです。

 

 

この勝利は、まさに張郃の見事な采配によるものと言ってもよいでしょう。

 

 

 

この時点で張郃の領地はさらに加増され、領邑は4300戸に。この戸数は武官としては異例で、曹丕の弟である曹植(ソウショク/ソウチ)ですら3500戸の領邑しか擁していなかったのを考えると、血族以上に重宝されたという事になります。

 

 

 

その後、再び荊州の対呉戦線に移動しますが、攻撃を計画したものの長江の水かさが少なく、アドバンテージを取れる大型船を使えないことで侵攻を断念。そこからはしばらく呉軍とのにらみ合いになりましたが……ふたたび諸葛亮が北伐の動きを見せ、張郃は再び、対蜀戦線に立つこととなったのです。

 

 

 

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司馬懿の覚醒トリガーに……

 

 

 

 

諸葛亮の次の狙いは、大都市・長安にもほど近い陳倉(チンソウ)。ここは対蜀軍総大将の曹真が予測していた侵攻ルートで、しっかりと守りを固めた土地でしたが、当時の守備兵の数は多いとは言えないのが現状でした。

 

 

そこで不安になった曹叡は張郃を呼び出し、「大丈夫だろうか」と訊きますが……張郃はむしろ勝利を予測。

 

 

「蜀軍は遠征軍という立場。長期戦ができないため、私が戦場に着く前には兵糧切れを起こして撤退しているはずです」

 

 

果たして、張郃は念のため昼夜兼行で陳倉救援に急行しましたが、その途上で諸葛亮は張郃の予想通り撤退。この北伐も撃退成功に終わり、難を逃れたのです。

 

その後、張郃は将軍として最高級の車騎将軍(シャキショウグン)の地位に昇進。西部防衛の重鎮としての地位を極めたのです。

 

 

 

 

 

 

さて、諸葛亮のライバルとされる人物に、司馬懿という人がいます。諸葛亮を破りその後も魏で随一の存在として君臨し続けた司馬懿(シバイ)ですが、実は張が生きている間は諸葛亮にも完全に後れを取るなど、光る部分はあるもののどうにも精彩を欠いていました。

 

 

個人的な意見ですが、そんな今一つパッとしない司馬懿を一気に諸葛亮以上かもと言える名将に引き上げた要因は、もしかしたらこの張郃の死なのかもしれません。

 

 

 

というのも、張郃最期の出陣となる第四次北伐の際。この時も諸葛亮の兵糧切れまで粘り撤退に追い込むことに成功したものの、蜀軍の隙を突こうとその後を追ったものの、張郃はその遭遇戦で逆襲を受けて戦死。

 

『魏略』には、この追撃は司馬懿の命令によるもので、仕方なく追撃したものの伏兵の一斉射撃に遭い、腿に矢を受けて亡くなったとも。

 

 

 

実は司馬懿はこれまで大した実戦経験を持たず、どちらかというと裏方作業が多かったと言えます。

 

それが突然前線の総大将になったのですから、ある意味司馬懿のこの失策も仕方ない部分はあるのかもしれません。

 

 

 

とはいえ、名将の張郃をむざむざ失うことになった司馬懿は、これ以降は人が変わったように慎重な対応をするようになり、「得意分野が活かされる絶好の機会以外は基本行動しない」という行動方針を徹底したかのような動きを見せています。

 

 

 

さて、ともあれ戦場で命を落とした張郃は後に諡を「壮侯」とし、息子の張雄(チョウユウ)が跡を継ぎました。

 

また、他の子どもたちもそれぞれ列侯に取り立てられ、張郃の領地を分割してそれぞれに与えられることとなったのです。

 

 

 

 

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蜀軍「あいつマジで怖いわ」

 

 

 

本伝における張郃の評価は、以下のようになっています。

 

 

戦場の変化の法則をよくわきまえ、よく陣営を処置した。戦争の地形や状況を熟慮して計画を立てて計略通りにいかないことはなく、諸葛亮以下蜀軍は彼の存在を恐れていた。

 

また、儒教にも造詣があって儒学者をかわいがり、同郷の才人を役人に推薦したこともあった。

 

 

まさしく敵からすれば恐怖の戦人であり、戦場での用兵は状況に応じて変幻自在。

 

それだけでなく、儒学者としての側面も兼ね備えた人物だったという感じですね。

 

 

 

また蜀軍に恐れられたという逸話もインパクトが強く、『魏略』では定軍山で夏侯淵を討ち取った時、劉備は「で、張郃は?」と言い放つなど、まあ話半分の逸話で張りますが、張郃を恐れていたことが伺える話もあります。

 

 

諸葛亮の北伐に関しても、彼と曹真、郭淮あたりがそろっているときは大抵後で巻き返されている辺り、「蜀軍に恐れられていた」というのは間違いないでしょう。

 

 

 

ところで、彼の字の「儁乂」という文字、それぞれの意味をくっつけると「優れた統治者」とか「賢明な才人」みたいな意味合いを持つのですが……あながち無双シリーズのナルシスト然とした名将という姿も間違いではなかったのかも……?

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