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【張郃伝1】勇将張郃~張飛に負けたこともあるけど~

 

 

 

河北の名将

 

 

 

 

張郃は始め黄巾の乱で功績を上げ、地元の群雄であった韓馥(カンフク)の軍司馬(グンシバ)に属します。

 

 

しかし、その韓馥の支配領域に、今度は袁紹(エンショウ)が入り込んできて冀州の支配権を強奪すると、張郃もそれに従うように袁紹配下に加わることとなりました。

 

 

 

張郃の才能を感じ取った袁紹は、すぐに彼を校尉に昇進させ、一軍を任せて公孫瓚(コウソンサン)との戦いに彼を投入。袁紹は最初こそ劣勢でしたが、次第に挽回。最終的に公孫瓚を撃ち滅ぼすことに成功しますが、これは張郃による働きも大きかったそうな。

 

袁紹はすぐに張郃をさらに上の地位に就かせ、今度は寧国中郎将(ネイコクチュウロウショウ:中郎将は禁軍指揮官のこと)に栄転させることとしたのです。

 

 

 

その後河北に敵がいなくなると、袁紹曹操との決戦に踏み切り、官渡で両軍が激突。

 

 

数ヶ月という名が包囲の末、戦いは優勢を極めましたが、ある時、参謀の許攸(キョユウ)が脱走。曹操軍に兵糧庫の場所をバラしてしまい、それが元で袁紹軍の急所が奇襲を受けることとなってしまったのです。

 

 

この報を聞いた袁紹は、すぐに緊急の軍議を開始。出席した張郃はすぐに兵糧庫の救援を訴えかけますが、袁紹の参謀・郭図(カクト)は、逆に曹操軍本拠である官渡への総攻撃を献策。

 

袁紹は双方の意見を取り入れる形で、救援隊には足の速い騎兵のみを派遣。残りの全軍で曹操軍の守備隊を総攻撃するという采配を取ったのです。

 

 

が、この結果は、救援部隊も曹操軍に打ち破られ、さらには城の攻略も失敗という有り様。急所を失って軍需品を焼き払われた袁紹軍は、あっという間に瓦解してしまいました。

 

 

 

事ここに至って、郭図は責任転嫁のため袁紹に讒言を行います。

 

「張郃は我が軍の敗北でいい気になって、不遜な言葉を吐いておりますぞ!」

 

 

そんな話を聞いて危険を感じた張郃は、袁紹軍にはいられまいと投降を決意。曹操にお目通りして、「お前が今回我がもとに来たのは、昔、韓信が漢に味方したようなものだ」と喜ばれ、そのまま偏将軍(ヘンショウグン)の地位と、都亭侯(トテイコウ)の爵位を与えられることとなったのです。

 

 

ちなみに曹操伝である「武帝記」、および「袁紹伝」では郭図の讒言はなく、むしろ張郃が降伏したことが決定打となって袁紹軍が総崩れになったとあります。

 

この辺り、史書には統一性が無く、判断が難しいと言われていますね。

 

 

 

 

 

曹操軍の勇将

 

 

 

こうして曹操の配下として動くことになった張郃は、旧主:袁紹死後の領土侵攻に従軍。鄴(ギョウ)、渤海(ボッカイ)での戦いで相次いで戦功を立て、さらには別軍を率いて雍奴(ヨウド)県を攻撃し散々に撃破。

 

さらに逃げた袁紹の子をかくまった烏丸族との戦いにも参戦し、先鋒部隊の一つとして大いに活躍、平狄将軍(ヘイテキショウグン)に昇進し、さらには元袁紹配下で未だに抵抗を続ける菅承(カンショウ)なる人物の討伐にも成功しました。

 

 

また、独立勢力の陳蘭(チンラン)、梅成(バイセイ)らが孫権と結んで反曹操の旗色を示すと、その討伐にも参加。張遼(チョウリョウ)の指揮下でこれらを打ち破りました。

 

 

その後建安16年(211)に馬超(バチョウ)ら西涼の独立勢力が反乱を起こすと、曹操自らが潼関(ドウカン)で反乱軍と決戦。この戦いにも張郃は参加し、以後はしばらく、対西方の副官として動くようになります。

 

 

まず安定(アンテイ)を包囲し、反乱した群雄の一人である楊秋(ヨウシュウ)を降伏に追い込み、さらには馬超らと関わりの深い異民族の氐(テイ)族及び群雄の梁興(リョウコウ)を、西方司令官となった夏侯淵(カコウエン)と共に撃破。

 

 

さらには捲土重来を狙う馬超と、長年独立勢力として割拠していた宋建(ソウケン)の撃破にも成功し、西方の平定に大きく貢献しました。

 

 

その後曹操自らが乗り出した漢中(カンチュウ)攻略にも参加し、先陣として朱霊(シュレイ)らと共に軍を率い、氐族の王である竇茂(トウボウ)を討伐。さらには曹操の漢中入りに際しても兵五千を連れて先行、道路を通じさせました。

 

 

 

 

 

 

その後漢中が手に入ると、その守将として夏侯淵を置き、曹操は帰還。張郃は別軍を率いて巴東(ハトウ)巴西(ハセイ)の二郡を攻略。そこの住民を漢中に移民させる計画を実行することになりました。

 

が、この時、益州を制圧した劉備の武将、張飛(チョウヒ)に張郃軍は捕捉され、移民をかばいながらのにらみ合いに発展。50日以上の膠着の後、張飛の策にかかって敗北を喫し、南鄭(ナンテイ)に引き返すことになってしまったのです。しかし、移民の護衛には成功したようで、前後の功績もあって盪寇将軍(トウコウショウグン)に昇進。

 

 

その後、劉備による漢中への侵攻が本格化し、劉備自ら軍を率いて攻め寄せてきます。この時張郃は広石(コウセキ)という場所に布陣しますが、ある夜劉備による夜襲が敢行され、精兵一万が十部隊に別れ、張郃軍に突撃してきました。

 

が、張郃も負けじと自らの親衛隊を率いて白兵戦にもつれ込ませ、これを撃退。

 

 

が、今度は劉備は手を変えて、張郃でなく夏侯淵本隊の南に位置する走馬谷(ソウバコク)で火計を実行。夏侯淵自らが消火に向かう隙を狙い、そのまま夏侯淵を討ち取ってしまったのです。

 

 

別の伝には、この火計のほか、張郃への総攻撃が行われてさらに夏侯淵の手勢が減っていたともあります。

 

 

 

夏侯淵戦死を聞いた張郃は、急いで背後の陽平関に帰還。大将不在で途方に暮れる中、夏侯淵配下であった郭淮(カクワイ)が名将であるとして張郃を大将代理に推薦。

 

総大将となった張郃は敗色濃厚となった軍を引き締め、なんとか態勢を立て直すことに成功します。

 

 

その後に曹操から節(賞罰の権限)を受け取って正式に大将となり、さらに曹操自らが軍を率いて参戦するようになりますが、劉備はすでに得た要害に引きこもって動こうとせず、攻めあぐねた曹操は漢中の放棄を決定。

 

実質的な敗北という形でこのこの戦いの幕は下りることとなり、張郃も後方基地のある陳倉(チンソウ)に撤退することとなってしまったのです。

 

 

 

 

 

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実際、諸葛亮のトラウマという意見も納得ですね。

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