【郭嘉伝1】不良天才軍師の経歴


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【郭嘉伝1】不良天才軍師の経歴

 

 

 

 

 

袁紹曹操

 

 

袁紹(エンショウ)は群雄割拠の時代の黎明期を引っ張る巨大勢力の主で、特に曹操の台頭前は袁紹のほうがよっぽど人気。

 

そのため曹操の幕僚も、当時は袁紹軍に属する地元仲間のコネで、彼に仕えていたケースも少なくありませんでした。

 

 

 

かくいう郭嘉もその一人で、袁紹の元に向かい彼に謁見。

 

しかし当の郭嘉は引っかかるところがあったのか、袁紹の幕僚である郭図(カクト)や辛評(シンピョウ)に、一つ意見を申し出ました。

 

 

袁紹殿は名士にへりくだった態度を見せて過去の偉人を真似ておられますが、人材任用の機微をご存知でありません。そもそも我々謀臣は君主の器を見極めるからこそ、功績を打ち立てられる者。
袁紹殿では、きっちりと協力して事に当たるのは難しいでしょう」

 

 

つまり、郭嘉の方から袁紹をNG。結局、袁紹に仕えることなくすぐに立ち去ったのです。

 

 

 

その後、相性の良かった謀臣・戯志才(ギシサイ)を亡くして自身の相談相手に困っていた曹操の元に、同郷の名士である荀彧(ジュンイク)の推薦で謁見。

 

 

二人はしばらく話し合った結果、すっかり意気投合。郭嘉は「私の主君はこの人だ!」と確信し、また曹操も「こいつは俺の大業に必要な逸材だ!」と感じ入ったとか。

 

互いにシンパシーを感じたところで、曹操は朝廷に上奏し、司空軍祭酒(シクウグンサイシュ:司空は当時の曹操の官職。曹操お付きの軍師)として採用。こうして、郭嘉曹操の元でその知略を振るうことになったのです。

 

 

曹操袁紹の十の違いについては、一番最後に記載

 

 

 

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曹操のブレーンとして

 

 

その後、数年にわたるすったもんだの末、曹操はようやく呂布(リョフ)を徐州の下邳(カヒ)城に追いつめます。

 

しかし、呂布軍は異民族の兵も多く、本人の圧倒的武勇もあって精強。連戦連勝した曹操軍ではありましたが、その軍は疲弊しきっており、曹操もそれを見て一時撤退を心に決めていました。

 

 

しかし荀彧は、同じく軍師の荀攸(ジュンユウ)と共にこれを制止。

 

 

「我が軍の連勝により、呂布軍は士気が下がっています。呂布自身も気力が大きく減退し、参謀の陳宮(チンキュウ)もまだ策を思いついていない今こそが好機です」

 

 

優れた軍師二人の意見を聞いて、曹操は奮い立って呂布の攻撃を続行。これ以上戦いを長引かせないために総攻撃を仕掛け、全力を出せず力の衰えた呂布を捕らえることに成功したのです。

 

 

また、『魏書』には劉備の才覚を見抜いて「速めに処分するように」と訴えた程昱(テイイク)に対し、「奴は危険ですが、今処分すると諸侯の疑念を買って、思わぬ裏切り者を招いて名声を地に落とします」と曹操に申し入れています。

 

 

 

ともあれこうして呂布を倒し、周囲もまとめて併呑したことで、いよいよ曹操の目下の敵は、北方にいて圧倒的な巨大勢力を誇示する袁紹のみ。曹操は一大決戦に臨むべく、着々と準備を進めます。

 

しかし、そんな曹操にはもう一つ、気がかりなことがありました。南の江東で勢力を広げる、孫策(ソンサク)です。

 

 

孫策曹操を危険視し、袁紹との戦いの隙を突いて、曹操軍の本拠地を襲撃する計画をひそかに練っていました。

 

 

これを危険視する曹操に、郭嘉は涼しい顔で「孫策は警戒心がなく、自身が打倒した者らが人望の厚い英傑だと気づいていません。ともすれば、刺客に命を狙われるのは時間の問題です」とその死を予想。

 

結果、孫策は自身が併呑、殺害した許貢(キョコウ)という人物の仇討ちを狙う人物によって殺されてしまい、郭嘉の予言は的中したのです。

 

(ただし、裴松之はこれに対して「殺される時期まで言い当てるのはさすがに無理がある」としています)

 

 

 

これで心配事がほとんど片付いた曹操は、官渡の戦いで袁紹軍を撃退し、隆盛を誇った袁紹はその2年後に病死。

 

流れが完全にこちらに向いた曹操軍の軍内では、この機に袁紹領を軒並み併呑してしまおうという意見が強くなります。

 

 

 

が、ここで郭嘉は反対に、「少しの間放置しましょう。袁紹の旧臣らは団結が薄く、袁紹自身が後継者を決めていないのも手伝って揉め事が起こるはずです」と主張。

 

曹操は「郭嘉の言葉に理がある」とし、袁紹死後の領地の動向をしばらく見守ります。すると案の定袁紹の長男・袁譚(エンタン)と三男・袁尚(エンショウ)の間で後継者争いが勃発。

 

曹操はこれに付け入る形で侵攻を開始し、袁紹軍の本拠地であった鄴(ギョウ)を攻め落とし、袁尚を北に駆逐。さらには袁譚を討ち取ってその領地を平定しました。

 

袁紹ら北の軍閥との戦いに終止符を打った曹操は、今こそ臣下の恩に報いる時と考え、特に優れていた一部家臣に恩賞を与えましたが、この時に郭嘉も功績をたたえられ、洧陽亭侯(イヨウテイコウ)に封ぜられたのです。

 

 

 

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烏丸征伐

 

 

さて、こうして袁紹の息子らを軒並み駆逐した曹操ですが、北に逃げた袁尚はまだあきらめていませんでした。

 

彼は北の統治を行っていた兄・袁煕(エンキ)と共に、北方の異民族である烏丸(ウガン)に協力を依頼。袁紹の時代から親交のあった烏丸族の単于(ゼンウ:王)の蹋頓(トウトン)らはこれを受け、反曹操の旗色を明確にしました。

 

 

 

曹操軍はこれを受けて烏丸征伐を計画しますが、この頃劉備が南方に逃げており、荊州刺史(ケイシュウシシ:荊州の長官)の劉表(リュウヒョウ)に兵と領地を借りて反曹操の活動をしていました。

 

この劉備の動きを警戒し、曹操軍の多くは「烏丸討伐が長引けば劉備が攻めてくるのでは」と心配していました。

 

 

が、郭嘉は烏丸討伐の強行を提唱。

 

「今、烏丸らはこちらの来襲を想定せず防備を手薄にしているはずです。しかしもしここで南に進路を切り替えれば、人材は北に流れ敵に力を与えることでしょう。
一方の劉表は自身の器を自覚しており、劉備を使いこなせないのを理解しています。攻めてくる心配はないでしょう」

 

 

この言葉を容れて、曹操は烏丸討伐を決意。軍を勧めます。また、その途上でも郭嘉は、敵の防備が盤石になる前に少数兵力で奇襲を行うよう進言。

 

この時にはなった言葉が、かの有名な「兵は神速を貴ぶ」だったとされています。

 

 

 

そこで曹操は輜重(軍備)を捨て、少数精鋭の騎馬隊だけで烏丸らの砦に強行。突然の奇襲に慌てふためく烏丸隊を強襲、そのまま打ち破り、総大将の蹋頓すらも討ち取る大勝利に終わったのです。

 

 

 

早すぎる死

 

 

こうして無事に烏丸討伐を終えた郭嘉ですが、北の空気が体に合わなかったのか体調を崩し、曹操領に戻ってからはさらに症状が重篤化してしまいます。

 

曹操はその知らせを聞くと、大慌てで見舞いの使者を出します。後に郭嘉だけが幕僚の中で若かった。次代を託してみたかった」と述懐しているのを見るに、やはり若い郭嘉には並々ならぬ思い入れがあったのでしょう。

 

 

しかし、そんな曹操の思いもむなしく、郭嘉は38歳の若さで世を去りました。

 

 

曹操郭嘉の死を聞くと、「これが運命か」と嘆き、せめてものはなむけとして帝に上奏して領地を加増。諡は貞侯(テイコウ)とされ、その後は子の郭奕(カクエキ)が継ぐことになりました。

 

 

 

 

 

 

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