【趙雲伝】まさに堅実な名将軍


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【趙雲伝】まさに堅実な名将軍

 

 

 

 

 

劉備軍の堅実な名将

 

 

 

趙雲は元々、北方の群雄である公孫瓚(コウソンサン)に仕えていましたが、当時彼の客将である劉備(リュウビ)と共に公孫瓚の武将を助けに行く際に同行し、そのまま彼の主騎(シュキ:騎兵隊長?)を務めるようになりました。

 

 

その後、時は流れて建安13年(208)。放浪の末荊州の新野(シンヤ)に間借りを許されていた劉備でしたが、この年河北を平定した曹操はいよいよ矛先を南に向け、まずは荊州併呑の為に軍勢を差し向けたのです。

 

 

荊州を治めていた劉琮(リュウソウ)は、臣下らの意見を聞き入れて曹操に降伏し、劉備は完全に孤立。そのためすぐに南へと逃げることになりましたが……この動きを読んでいた曹操は、精鋭の騎馬部隊を5000のみ率いて先行。ついには長阪(チョウハン)で劉備らは曹操軍に捕捉されて一気に潰走。劉備は妻子を捨てて逃げ延びることとなり、彼の娘2人も、曹操軍に捕縛されてしまいました。

 

 

そんな大混乱の中、趙雲は取り残されていた、甘夫人(カンフジン)と後の劉禅(リュウゼン)親子を発見。まだ赤子だった劉禅を胸に抱きかかえ、甘夫人を護衛したおかげで、劉備らは難を逃れることができたのです。

 

 

 

その後牙門将軍(ガモンショウグン)に昇進し、今度は劉備の蜀入りの後、諸葛亮(ショカツリョウ)の指揮下として荊州から西進を開始。益州を守備する軍勢を次々と打ち破り、諸郡を平定していきました。

 

その後趙雲は諸葛亮本隊と別れ、「益州本拠地である成都で落ち合う」事として、別動隊を率いて周辺平定を続行。

 

 

相当な活躍を示したのかはたまた長年の功績からか……益州平定後には翊軍将軍(ヨクグンショウグン)という位に昇進。

 

 

 

建興元年(223)には征南将軍(セイナンショウグン)・中護軍(チュウゴグン)に昇進し永昌亭侯(エイショウテイコウ)の爵位を与えられた後、さらに位が進んで鎮東将軍(チントウショウグン)に昇進。趙雲はこの頃から軍の中核をなすようになっていったのです。

 

 

捕捉をすると、本来鎮〇将軍という位は、誤差範囲程度とはいえ征〇将軍よりも格下なはずですが……。蜀では独自の将軍位制度を設けていたのでしょうか?

 

 

 

 

建興5年(227)には、諸葛亮に従って蜀の前線都市である漢中(カンチュウ)に駐留。その翌年には、かの北伐が開始され、趙雲は鄧芝(トウシ)と共にまだまだ未熟な兵をばかりを率いて、囮として諸葛亮らとは別方面から進軍。敵軍を引き付ける隙に、諸葛亮ら本隊が魏の要衝を落とす算段でした。

 

 

しかし、魏の総大将である曹真(ソウシン)はこの作戦を看破し、弱兵しかいない趙雲軍に向けて精鋭部隊をぶつけて総攻撃を開始。まともな兵を率いていない趙雲軍は当然ながら敗北しますが、趙雲はこの時敗残兵をうまくまとめたため、大きな損害も出さずに撤退することに成功しました。

 

 

諸葛亮による作戦の失敗、さらにはその愛弟子の馬謖(バショク)による大敗北もあり、敗色濃厚となった蜀軍はそのまま撤退。北伐失敗により主立った将のほぼ全員が降格処分を受けることとなり、趙雲も形の上では「不警戒」という理由で鎮軍将軍(チングンショウグン)へと降格。

 

 

その後も北伐は続行する予定があり、趙雲もその武勇を大きく期待されますが……この失敗の翌日、建興7年(229)に逝去。

 

その死は諸葛亮はじめ、多くの者に惜しまれたそうです。

 

 

 

ちなみに諡号は、順平侯。長らく諡号を与えられたのは、劉備からは法正(ホウセイ)のみ、劉禅の代になっても中心人物となった諸葛亮、蒋琬、費禕だけという状況でしたが、蜀の最末期にようやく他の諸将にも諡号を与えられるようになり、趙雲は関羽張飛、馬超、黄忠と並んで、その最初の5人となったそうな。

 

 

その事から趙雲は関羽らと同列として史書に名を残し、後によく知られる五虎将軍の元ネタとなったのです。

 

 

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人物評

 

 

 

趙雲は関羽張飛、馬超、黄忠と共に一纏めにその記述が記されており、彼らと同格と記されています。

 

 

もっとも、実際に生前の格は彼らより下。理由はわかりませんが、他四人と比べて余り評価されていなかったようですが……

 

 

とはいえ、ここに関しては他の四人(あと劉備時代は格上だった魏延)の軍功が飛び抜けているだけであり、趙雲自身が中核を担えるレベルの将軍だったことは間違いありません。

 

 

三国志の生みの親、陳寿は五人全員をまとめて評していますが、欠点についても指摘された関羽張飛、馬超と違い、趙雲は黄忠と共にこう評されています。

 

 

両者が果敢、勇猛によって共に武臣となったのは、劉邦時代の英傑である夏侯嬰(カコウエイ)に似たものだったのではなかろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

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