【甘寧伝1】暴走破壊の鉄砲玉
めっちゃヤバい前半生
甘寧は実は益州の出なのですが、若くして狂気侠気に満ち、若い衆を集めて無頼の放浪軍を結成して頭目として暴れ回っていました。
甘寧率いる軍団は皆武装しており、腰に鈴、背には水牛の尻尾を模した旗指物を差すという大変派手な格好をしており、すぐに話題になったのです。
軍団は皆相手が地方の長官であっても容赦せず盛大な歓迎をさせ、甘寧らの団体を拒絶あるいは無視した者からは略奪を働くという始末。
そして自分たちをしっかりともてなしてくれた長官に対しては、その土地の治安維持に貢献。銃犯罪が発生した時には犯人を洗い出して制裁を加えていったのです。
当然、服装も派手の一言に尽き、『呉書』でも「その一行の行く先々は照り映えた」と記されており……まあ、総括すれば非常に目立つヤクザみたいな生活をしていたわけですね。
さて、そんな生活を続ける事20年ほど。ある時、甘寧はこの無頼の軍勢による活動をピタリとやめ、突然学問に目覚めます。
そしてすっかり本の虫となって学問をかじると、突然荊州(ケイシュウ)に移住。そこに割拠する劉表(リュウヒョウ)の元に身を寄せたのです。
ちなみに『劉焉伝』から引く『英雄記』ではある時大きな反乱が起きており、これを鎮圧した際に荊州へ逃げた主要人物の中に甘寧の名があります。
つまり、学問を身に着けてから益州の当主に反乱を企てて失敗した可能性があるというわけですね。
さて、こうして劉表の元に向かった甘寧でしたが、結局取り立ててもらえなかったため彼の部下である黄祖(コウソ)の元へ移動。
しかし黄祖は甘寧をただのあぶれ者として扱ったため、結局そこから東に移り、今度は孫権(ソンケン)の元に身を寄せることにしたのでした。
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甘寧の天下二分
黄祖軍の中でほぼ唯一自分を買ってくれた蘇飛(ソヒ)らの協力もあって無事に孫権軍に亡命した甘寧でしたが、彼の力を見抜いた周瑜(シュウユ)や呂蒙(リョモウ)らはこぞって重宝するように進言。
かくして孫権は、甘寧を古参の武将らと同列に扱うことにしたのです。
そして孫権軍として無事に迎え入れられたある日、甘寧は孫権に対してとある戦略を進言します。
「荊州に跋扈する面々は大した連中ではありません。これでは、曹操にも難なく取られてしまうでしょう。そこで、まずは急ぎ荊州を奪取しましょう。現在黄祖がその入り口を守っていますが、耄碌しており大した脅威になりますまい。黄祖を打ち破り、軍を整えて荊州を奪えば、その西にある益州を手中に収めるための展望が見えて参ります」
つまり、天下を二分して曹操と対峙する足掛かりとして、まずは荊州を奪ってしまうようにという献策ですね。天下二分は周瑜、そして荊州を奪うという目標は魯粛(ロシュク)が唱えたものですが、甘寧はそれが今ならば現実的であると判断したのです。
これに対して控えていた張昭(チョウショウ)は「それでは呉の地では反乱が起きてしまう」と反対しますが、甘寧は「かの名宰相・蕭何(ショウカ)の任を殿より授かったお方が、反乱を心配なさるのですか。反乱を抑えられず心配するようならば個人と並びたいという考えと矛盾しますぞ」と真っ向から反論。
孫権は「張昭の意見を気にかけることはない。まずはそれを可能とすべく、黄祖を討つのだ」とノリノリで賛同し、黄祖討伐の軍を発足。何年と苦しめられてきた黄祖をついに討ち果たし、その軍勢を取り込むことに成功したのです。
猛将甘寧
その後甘寧は赤壁の戦いにも参加し、その後南郡(ナングン)をめぐる攻防戦では別動隊を率いて夷陵(イリョウ)を奪取。
無事に作戦行動を終えた甘寧でしたが、その後敵軍が甘寧の軍勢をはるかに上回る大軍で逆に夷陵の甘寧らを包囲してしまいます。
甘寧は長期間の包囲によって窮地に陥り兵たちも恐れおののく有り様でしたが、この時甘寧だけは平気な顔で談笑していたと伝えられています。
そして、そうこうしているうちに周瑜らの救援が到着し。敵軍を追い散らしていき、甘寧らは事なきを得たのです。
建安19年(214)、孫権軍は曹操軍の前線都市であった皖城(カンジョウ)の攻略に着手。甘寧は呂蒙によって升城督(ショウジョウトク:城攻めの突撃隊長)に任命され、一気呵成に皖城へと攻勢を仕掛けます。
そして自ら戦闘切って城壁をよじ登り、敵軍を撃破して守将の朱光(シュコウ)を生け捕りにしたのです。
この戦いでは、前線総大将として自ら太鼓をたたいていた呂蒙に次ぐ武勲を認められ、甘寧は大いに名を上げました。
翌年の建安20年(215)、劉備軍との間で揉めていた荊州問題が完全に爆発し、甘寧は魯粛の配下として劉備軍の関羽(カンウ)の抑えにりました。
魯粛の軍勢と正面切って睨み合っていた関羽は、自ら5千の兵を率いて夜半の間に渡河、そのまま魯粛らに接近する動きを見せ、その情報は魯粛らの本陣に伝わってきたのです。
この時、甘寧は僅か300人の兵しか連れていませんでしたが、魯粛に対し「あと500人預けてくだされば、関羽を止めて見せましょう」と進言。魯粛はこれを受けて千人を甘寧に預けてみせ、軍勢を与えられた甘寧もまた夜のうちに進軍し、関羽軍に圧力をかけました。
甘寧が迫ってきている。それを聞いた関羽は無茶を避け、浅瀬に陣を敷いたものの渡河作戦を中止(この時の関羽の陣所後は関羽瀬と呼ばれているらしい)。
甘寧はこの活躍を買われ、西陵(セイリョウ)太守に任命されることになったのです。
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鈴の甘寧大暴れ
その後、曹操が濡須(ジュシュ)に軍を進め、孫権と雌雄を決する構えを見せてきました。
孫権はこれに応じる形で、ほぼ全力を以って之に応じ、両軍は対峙することになったのです。
甘寧はこの時、前部督(ゼンブトク:先鋒隊長)となって敵先鋒隊の屯所を攻撃する任務を与えられ、その出撃に際して孫権から酒や米、上物の料理が贈られてきました。
どう見ても決死隊に対する扱い
甘寧は孫権から受け取った料理を集まった部下100人ほどに振舞ってやり、それが終わると自身が酒を2杯飲んでから、部下たちにも回していきました。
完全に決死隊
しかし、部下は突っ伏してそれを受取ろうとせず、無言の抵抗で決死の突撃を拒否しようとしました。
それに対して甘寧は刀を膝に置くと部下に怒鳴りつけます。
「将軍の俺ですら死を覚悟している! お前が命を惜しんでどうする気だ! 俺とお前、どっちが殿から大事にされているのかわかっているのか!?」
その言葉に感銘を受けたのか甘寧の顔を見てヤバいと思ったのか、渋っていた部下はすぐに姿勢を正し拝礼して酒を受け取り、兵たちにも酒と銀一粒を配って回ったのです。
そして夜半を回ったころ、静かに潜伏して敵陣への夜襲を敢行。官営らの突然の襲撃に驚いた敵軍は算を乱して大混乱に陥り、そのまま退却していったのです。
決死の突撃を生き抜いた甘寧はこの活躍を大いに気に入られ、部下の数を2千に増員。ようやくまともな軍勢を与えられ、甘寧はその力を認められたのです。
しかしすでに老齢に達していた甘寧は、その後大きな活躍を見せることなくいつしか病死。孫権はその死を惜しみましたが、甘寧の軍勢は残される事無く潘璋(ハンショウ)軍に編入。
息子の甘瓌(カンカイ)も罪を犯して流罪となり、配流先から復帰することなく亡くなったのでした。
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- 正直、少なくとも人物面ではあまり信用されてる様子がないですね。