【鍾繇伝2】超絶山椒爺


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【鍾繇伝2】山椒畜生爺

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

鍾繇は主に文官としてその力を発揮し、俊英として老齢まで政治の最前線に立ち続けました。

 

当然、彼を評価する際も、かならず触れられるのは政治の才覚。

 

 

三国志を編纂した陳寿は、彼の事をこう評しています。

 

 

道理に通じ、司法の才があった。

 

 

 

この一文の示す通り、鍾繇の記述では司法関係の仕事についているものが多くあります。

 

また、魏で昨今間でも屈指の名声を誇っている荀彧(ジュンイク)、荀攸(ジュンユウ)との交友が示唆されているのも、おそらく道理に通じていたという評価の元になった部分でしょう。

 

 

また、目を向けられることこそ少ないものの、軍事的な才覚も備わっており、その辺りの才と人の才能を見抜く力を買われた結果、危険な関中諸連合との橋渡しなどを任されたのでしょう。

 

実際、鍾繇はそこでも剛柔織り交ぜた手段を使い、最終的に不穏分子を駆逐しています。

 

 

さて、そんな一見すると何とも普通に優秀なだけの文官といった感じの鍾繇ですが……人格面を表すエピソードの他に、その優秀さからは想像のつかない間抜け面白なエピソードがあります。

 

 

 

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鍾繇、私事を持ち込まない

 

 

 

『魏略』にある話。

 

 

郭援は袁紹の息子らの配下として曹操に敵対しましたが、彼は龐徳(ホウトク)によって討ち取られました。

 

龐徳は戦っている最中は自分の上げた首が郭援の者だと知らず、後になってその事が発覚。

 

 

郭援は実は鍾繇の甥であったため、罰の悪さと申し訳なさから、しばらく黙っていました。

 

しかし後に「郭援が討死したのに首がない」と見方が騒ぎ立てたため、仕方なく鍾繇に郭援を自分が討ち取ったことを報告。

 

 

郭援の首を見た鍾繇はひとしきりその首を見て泣くと、謝罪する龐徳に向き直り、「構わぬ」と一言。

 

 

「郭援はわしの甥だが、それ以前に国家の敵。最善の選択がこれだっただけで、おぬしが謝る事でもない」

 

 

昔から公私を分けて考えることは美徳とされてきましたが、鍾繇もそんな美徳を守れる人物だったのですね。

 

 

 

 

 

荀攸の秘策

 

 

 

荀攸は秘密主義者で誰にもその胸中を語りませんでしたが、鍾繇にだけはかなり心を開いていたようです。

 

二人は親友同士となり、鍾繇は先だった荀攸の家族の面倒をまとめて見る等、二人の仲は相当に親密だったことが伺えます。

 

 

さて、そんな鍾繇は荀攸の死を目の当たりにして、彼の立てた秘策が世に残らないのを憂いました。残念なことに、荀攸の胸中にある策謀の数々を本当の意味で知っているのはこの世で鍾繇ただ一人。

 

 

何としても彼の素晴らしい策をこの世に残さねばと、鍾繇は一念発起。自身だけが知る、荀攸の12の秘策を書にまとめることを心に決めます。

 

 

 

しかし、残念ながら、その半ばで鍾繇は死去。書きかけの荀攸12の秘策は当然ながら世に出回らず散逸。天才軍師の荀攸は、何をしたかもよくわからない謎の人として、その知名度をわずかながらに薄めてしまったのです。

 

 

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鍾繇、謎の肉刑推し

 

 

 

ある時、曹操が死刑の代わりになる刑罰として宮刑(キュウケイ:いわゆるパイプカット。宦官は一般的にこの刑を受けた者の総称)の復帰を提案しました。

 

そんな中、鍾繇は別の刑罰の復帰を提案。それが、鼻や耳といった体の一部を削ぎ落す肉刑という古代の処罰法でした。これならば命を奪うでも生殖能力を無くすでもなく、それでいて刑罰として成り立つ方法だったわけですね。

 

 

しかし、当時の学者たちは一様にこれに反対。「こんなもので民が喜ぶはずがない」と却下されてしまったのです。

 

 

 

鍾繇はあきらめていませんでした。時代が変わって曹丕が跡を継いだ後も、この話は再び議題に上がったのです。

 

この時も曹丕の口から「鍾繇は死刑に代わり、肉刑復帰を望んでいる」と群臣に投げかけ、議論をさせることに。しかし、ここでも議論を開く前に戦争があり、結局うやむやのままに沙汰止み。

 

 

 

それでもあきらめじと、鍾繇は今度は曹叡の時代にも肉刑復帰を上奏したのです。この執念はいったい

 

 

この時、ようやく議論が開始されたのですが……ここで思わぬ刺客が現れます。それが、自身の同僚にして共に「一代の俊英」と謳われた王朗でした。

 

王朗は鍾繇の肉刑復帰に真っ向から反対。

 

「肉刑の抑止力は死刑よりも軽く、これが呉蜀の民衆に伝わると悪影響になる。死刑を無くすのが目的ならば、別の手を講じたほうがよいだろう」

 

 

結局群衆は王朗の意見に賛成する者が多く、ちょうど戦争があったことで再び議論は沙汰止みに。鍾繇による肉刑復活は成らなかったのです。

 

 

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超絶参照爺

 

 

さて、お待たせしました。間抜けな話、鍾繇と山椒の逸話です。これは鍾会が自身の母について書いた話と、「魏氏春秋」にあるお話。

 

 

もはや老境に差し掛かっていた鍾繇ですがその色欲は収まる所を知らず、張氏(チョウシ)という女性を溺愛していました。

 

こうなると面白くないのが、他の側室。孫氏(ソンシ)という側室は、鍾繇と張氏の仲の良さが許せず、大変嫉妬してしまったのです。そして、鍾会の言う話によれば、なんと鍾会を妊娠した張氏の毒殺まで計画、実行したのです。

 

 

とにもかくにもそれほど仲をこじらした様子を見た鍾繇は、張氏毒殺未遂の話を聞くと、怒って孫氏と離縁。

 

 

この騒動はついには曹丕の母である卞太后(ベンタイコウ)まで動かすこととなったのです。

 

卞太后は孫氏との復縁を鍾繇に迫りましたが、鍾繇はこれを断固拒否。ついには激怒して、自殺を図るまでに至ったのです。

 

 

この時手元に毒薬がなかったため、代わりに取り出したのが山椒。鍾繇は大量の山椒を用意し、それをバカ食いすることで自殺しようとしたのです。

 

 

しかし齢70を過ぎた体でも頑丈だった鍾繇の身体は刺激物の過剰摂取にも耐え抜き、結局自殺は未遂に終わりました。

 

代わりに過剰摂取の副作用として喉に異常をきたして声が出なくなってしまい、それを見かねた帝が慌てて介入。復縁の命令を取りやめたのでした。

 

 

いい歳こいて何やってんだ

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