【鍾繇伝1】西方守護者・畜生
水難と出世の相
鍾繇はまだ子供の頃に伯父と共に洛陽へと向かいましたが、その道中、人相占いをしている占い師にこのように言われました。
「この事は出世する破格の相の持ち主。ですが、水難の相も共に出てしまっていますね。気を付けたほうがよいでしょう」
この話を話半分に聞いていた伯父だったのですが、そこから少し進んで橋を渡っている最中、突如として鍾繇の乗っていた馬が驚いていななき、振り落とされた鍾繇は河へ盛大にダイブしてしまったのです。
幸いすぐに助けられたためなんとか生きて助けられましたが、鍾繇が水で死にかけたことから、伯父は占い師の話を真実だろうと断定。
以後、鍾繇は伯父からの全面支援によって猛勉強。ついには孝廉にて推挙を受け、役人としての道を歩むことになったのです。
鍾繇は陽陵(ヨウリョウ)県令としてひとつの県の統治を任されましたが、間もなく病気により辞任。しかしその後、今度は政治の華形ともいえる三公の役所からお誘いがかかり、廷尉正(テイイセイ:帝の命令による特別裁判用の裁判官)、黄門侍郎(コウモンジロウ:宮中の給仕接待役)に抜擢されました。
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曹操の元へ
この時、朝廷は李傕(リカク)らによって牛耳られていました。そんな折、兗州(エンシュウ)の地を得た曹操から、朝廷に対して挨拶の使者が届きます。
李傕らは曹操を警戒し、使者の足止めと曹操の意図の妨害を画策しましたが、鍾繇は曹操の擁護を行いました。
「今や群雄らは勝手に動いているのに、曹操だけはこうして使者を出し、朝廷に忠誠を誓っています。それを無下にするなどとんでもない」
鍾繇のこの言葉によって李傕らは妨害行為を取りやめ、曹操の朝廷への挨拶を融通。以後、曹操は朝廷に使節を送ることができるようになったのです。
さて、朝廷と密接な関係を結べるようになった曹操は、自身の参謀の荀彧(ジュンイク)が常々賞賛していたこともあって、鍾繇の事を気に欠けるようになっていきました。
そんなある時、帝は李傕らの専横を逃れて都・長安から脱出。鍾繇もこれについて行って、そのまま朝廷の直臣ともども曹操によって保護されることとなりました。
こうして曹操の庇護下に収まることになった鍾繇は、御史中丞(ギョシチュウジョウ:官僚観察の副官)となり、その後も侍中(ジチュウ:皇帝の応対役)、尚書僕射(ショウショボクヤ:金銭を始めいろんな物品の受納や管理を行う責任者。人事考課もする)と出世。
さらにこれまでの活躍から爵位と領土も与えられ、東武亭侯(トウブテイコウ)に取り立てられたのです。
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西涼諸勢力との懸け橋
しばらく朝廷の直属として動いていた鍾繇でしたが、ある時、曹操から重大な任務を任されます。
――西方の諸勢力との外交。
関中から西の土地は馬騰(バトウ)や韓遂(カンスイ)ら独立勢力でひしめき合っており、異民族の血の色も濃い事から、漢王朝とはまた違った気風を放っていました。
曹操はこれらの勢力が一致団結して敵対することを恐れ、そうなるくらいなら早い段階から味方に抱きこもうと考えたのです。
鍾繇は侍中の役職をそのまま、司隷校尉(シレイコウイ:首都近郊の警備隊長)を兼任。持節(ジセツ:独自判断での処罰権限)を与えられ、特使として西方に贈られました。
この時西方の二代巨頭である馬騰と韓遂はお互いに争っていましたが、鍾繇は二人の間に立ち文書を送り付け、争う事の危険性と、自分たちと手を組むことの利を明確に記して説得。
馬騰と韓遂は鍾繇の説得を受けて争うのをやめ、ついにはそれぞれの子供を人質として朝廷に派遣し、調停を擁する曹操と手を組んだのです。
鍾繇が味方につけた西方の諸勢力は、官渡の戦いにおいて物資不足に苦しむ曹操軍に軍馬を提供。曹操はこれに大いに感謝し、「前漢の名宰相である蕭何(ショウカ)に匹敵する」と活躍を喜んだのです。
その数年後に亡くなった袁紹の息子が郭援(カクエン)なる将を異民族の勢力送り込み、その勢力を反曹操勢力として取り込みました。
これにより勢いが盛んになった敵軍に対し危険と感じた曹操軍の将軍らは、一時撤退することを協議の場で訴えましたが、西涼の事情をよく知る鍾繇はこれに反対。
「西方の勢力の中には敵軍と内通している者がいるが、こちらの威名を気にかけて内通を戸惑っている者も多い。ここで撤退して弱みを見せたら、彼らまで敵に回ってしまう。幸い、郭援はこちらを軽く見ている。有利な地形に誘い込んで打ち破ろうではないか」
鍾繇はそう主張すると、西方軍閥の代表である馬騰に指揮下の張既(チョウキ)を派遣。説得し、なんとか味方につなぎとめることに成功しました。
曹操軍に助力すると決めた馬騰は、息子の馬超(バチョウ)を大将にした1万の軍勢を援軍に派遣し、まんまとおびき出された郭援らの軍勢を討ち破ったのです。
この戦いで郭援は討死し、異民族は降伏。袁一族の滅亡はほぼ決定したのでした。
その後、今度は曹操のお膝元の近くで反乱が起きましたが、こちらに対しても鍾繇は西方の精鋭部隊を借り受けて鎮圧。かつて漢帝国の都であった洛陽の近辺は、すっかり平穏を取り戻したのです。
鍾繇は平穏になった洛陽近辺に、西方の民たちを移住。反乱者や逃亡者も組み入れて、数年の間に荒れ果てた洛陽周辺の戸籍は一気に充実していきました。
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国家一代の英傑
こうして鍾繇が見事に西方を治めていましたが、建安16年(211)には、馬騰の息子である馬超らが中心となって離反。曹操に敵対しました。これは鍾繇が西涼の軍閥に対し強硬姿勢を貫くことを進言したためと言われています。
その後曹操が王に就任し、魏が国として認められると、鍾繇は大理(ダイリ:廷尉を解明した役職。最高裁判所長官)に就任。もともと司法が得意分野だったこともあって飛び抜けた活躍を示し、ついに魏の相国(ショウコク:内閣総理大臣)にまでなりました。
しかし建安24年(219)、自身がかつて推挙した魏諷(ギフウ)なる人物が、曹操軍の窮地にかこつけて大規模な反乱を画策。
未然に発覚したことで魏諷は誅殺されて事なきを得ましたが、この時魏諷を推薦した鍾繇も、その人物眼を疑われて辞任。一時期失脚してしまいました。
しかし、曹操死後に曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐと、再び大理として法務の仕事に従事。その後曹丕が帝位に上がりしばらくすると、鍾繇は今度は太尉(タイイ:軍事の総責任者)に昇進。さらに爵位も平陽郷侯(ヘイヨウキョウコウ)に格上げされました。
この時の鍾繇の名臣ぶりはもはや天下にも並ぶ者がほとんどいないほどだったようで、華歆(カキン)、王朗(オウロウ)ともども、曹丕から「一代の英傑である」と評されるほどでした。
後に曹丕が亡くなって曹叡(ソウエイ)が後を継ぐと、太傅(タイフ:帝の指導役。名誉職)に昇進。
しかしこの時になると鍾繇も華歆も王朗もかなりの高齢。鍾繇は膝の病気でろくに歩くことができず、華歆も病気がちになっており、介助が必要なレベルだったようです。
そのため彼らのために人力車を用意して、鍾繇らはそれに乗って出勤するようになったのです。以後、「三公にあたる重役が持病を抱えているときは車で出勤」という恒例が魏の中で出来上がったとか。
そんなこんなで高齢で不自由になってなお魏に仕え続けた鍾繇ですが、老齢には勝てず、太和4年(230)、80という高齢でついに死去。帝自ら喪服で弔問し、その息子たちは列侯に取り立てられて優遇されました。
諡は成侯。後に息子の一人である鍾会が魏に対する大逆を犯しましたが、彼とその息子の鍾毓(ショウイク)が立てた功績によって一族郎党の皆殺しは避けられています。
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