【徐晃伝1】常勝無敗ジョコプター


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【徐晃伝1】常勝無敗ジョコプター

 

 

 

 

 

河東の良将・曹操に帰服

 

 

 

徐晃ははじめ生まれである河東郡の役人として漢帝国に仕え、その後漢の車騎将軍(シャキショウグン)である楊奉(ヨウホウ)に仕官。賊徒討伐で軍功を挙げ、騎都尉(キトイ:近衛隊長)に任命されて武官としての第一歩を歩み出しました。

 

 

こうして主君を得た徐晃でしたが、この当時、都の長安は李傕(リカク)、郭汜(カクシ)らによって大いに荒らされ、漢王朝の権威は衰退の一途を辿っていました。

 

 

 

そんな状況を憂いた徐晃は、自身の主君である楊奉に、「帝と共に、元の都である洛陽に逃げ延びましょう」と進言します。

 

楊奉はこの意見に従ってさっそく帝を連れ、長安を脱出。黄河を渡った先の安邑(アンユウ)まで逃げ切り、なんとか無事に逃走劇を成功させます。

 

 

 

こうして無事に混乱から逃げ延びることに成功した帝の一派ですが、まだまだ混乱は続きます。

 

洛陽に帰還すると、今度は帝の近習らと楊奉らが対立。仲間であり逃走中に救援に来てくれた韓暹(カンセン)らが功績を鼻にかけて好きに暴れ始めたのが原因と言われていますが、とにかく洛陽は再び帝を中心として混迷し、最終的には軍事衝突を繰り返すようになりました。

 

結果、曹操の介入を招いてしまい、徐晃はやむなしと曹操への帰順を楊奉に進言。楊奉もこれに従う動きを見せましたが、すぐに心変わりして曹操軍と敵対し、惨敗を喫してしまいます。

 

 

敗北した楊奉は逃走し、居場所を無くした徐晃はもはやこれまでと曹操に降伏。

 

しかしこの苦い降伏こそが、徐晃の栄達の道の幕開けであったのです。

 

 

 

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曹操配下での台頭

 

 

 

さて、こうして曹操に降った徐晃は、手始めに周囲の賊徒討伐を成功させ、裨将軍(ヒショウグン:エリートコースの中継地点である下位将軍職)に任命され、すぐに頭角を現しました。

 

 

その後、呂布討伐、眭固(スイコ)討伐、そして反旗を翻した劉備の征討と主要な戦いで次々と軍功を立て、官渡の戦いでも顔良(ガンリョウ)、文醜(ブンシュウ)の撃破に主力部隊の一角として貢献し、偏将軍(ヘンショウグン)に昇進。その後も曹洪(ソウコウ)と共に反旗を翻した賊軍を討伐。

 

その後官渡の戦いが膠着状態に陥ると、荀攸(ジュンユウ)の策で袁紹軍の輜重隊を攻撃し、多数の物資を焼き払うという大戦果を上げ、都亭侯(トテイコウ)の爵位を与えられました。

 

 

 

建安9年(204)に韓範(カンハン)が降伏の意を唱えながら一悶着あって曹操と敵対すると、曹操は攻撃軍に徐晃を派遣。徐晃はこの時力攻めにせず、矢文で韓範に事の次第を釈明。これを受けた韓範は戦わずに降伏しました。

 

その後徐晃は韓範の降伏について、「他の城は我らの事をよく見ています。下手に攻撃すれば敵対されます」と韓範の降伏受諾を曹操に進言し、曹操はこれに同意。

 

 

その後別動隊を率いた際にも伏兵を用いて敵の陣営を落とすなど、まさに知勇兼備の働きを見せました。

 

 

こうして徐晃は、袁譚(エンタン)、そしてこの戦いに介入した蹋頓(トウトン)の撃破にも一役買い、曹操の華北統一に大きく貢献。その活躍を認められ、横野将軍(オウヤショウグン)に任命されました。

 

 

 

後に行われた荊州遠征にも徐晃は従軍し、賊軍討伐で戦功を挙げ、その後満寵(マンチョウ)や曹仁(ソウジン)といった名将たちと共に関羽(カンウ)の軍勢を撃破し、周瑜(シュウユ)との決戦にも臨みました。

 

 

しかし、赤壁の戦いでは曹操軍は大敗。これによって曹操の求心力は低下し、曹操の天下への道は大きく停滞することになってしまったのです。

 

 

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無敗の将軍

 

 

 

 

曹操軍が無敵であるという先入観が崩れ去ってしまった事から、その後各地で反乱が勃発。徐晃もしばらくは反乱軍との戦いに身を投じることになります。

 

 

建安15年(210)、北方の太原(タイゲン)で反乱がおこると、徐晃は夏侯淵(カコウエン)の指揮下として討伐に参加。本拠地を攻め落として首謀者を討ち取ることに成功します。

 

 

 

翌年、馬超(バチョウ)や韓遂(カンスイ)ら西涼の群雄が連合軍を起こして曹操軍と敵対。

 

曹操は徐晃の故郷である河東の反乱軍討伐を命じ、同時に徐晃の先祖を祭ることで彼の忠勤に答えました。

 

 

こうして反乱を抑えながら進んでいき、曹操軍はついに潼関(ドウカン)で馬超らの本隊と激突。

 

正面切っての対峙は危険なため、黄河を渡って北に陣を敷いて有利を取る作戦を採用しますが、曹操にとっては馬超の攻撃をかわしながら黄河を上手く渡れるかが不安でした。

 

 

そこで曹操は徐晃を呼んで共に作戦を練ることにしました。

 

徐晃は曹操に対し、「敵は精強ですが思慮は浅い。私が先行し、敵軍の退路に陣営を築きましょう」と提案。

 

 

曹操はこの意見を容れ、徐晃に歩騎合わせて4千の精鋭を与え、さっそく黄河を渡河させました。

 

この時、まだ陣営が出来上がっていないうちから敵将の梁興(リョウコウ)が5千の兵で夜襲を仕掛けてきましたが、徐晃はこれを難なく撃退。作戦通り陣営を作り上げ、曹操軍の渡河に際して敵軍の目を分散させることに成功。勝利に小さからぬ貢献をしたのです。

 

 

その後も徐晃は夏侯淵と共に別動隊を率い、西域の反乱軍を次々と一掃していき、梁興を討ち取って3千余りの家を降伏させました。

 

そして安定(アンテイ)で再び曹操軍と合流し、建安20年(215)の張魯(チョウロ)討伐にも従軍。さらにここでも別動隊として背後の氐(テイ)族討伐を執り行い、平寇将軍(ヘイコウショウグン)に昇進したのです。

 

 

その後曹操は帰還しますが、徐晃は西に残って、今度は対劉備の備えの1人として活躍を期待されました。

 

 

建安23年(218)には、いよいよ劉備軍が曹操軍と開戦。敵将の陳式(チンショク)によって断崖の間道が封鎖されますが、徐晃はこの解放のために別動隊を率いて進軍。

 

陳式を大いに打ち破り、その強さのあまり多くの敵兵が驚いて崖から転落したと言われるほどの大勝利を収めました。

 

 

曹操はこれを喜び、徐晃に仮節(カセツ:軍規違反者の処罰権限)を与えられ、更なる期待を寄せられることになったのです。

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