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【呂布伝1】叛逆の虎狼

 

 

 

 

 

早速裏切り

 

 

 

呂布は現在では内モンゴル自治区に位置する地域の出で、異民族の文化を色濃く受け継ぐ人物でした。

 

そのためか若くして武勇に優れており、その力を買われて地元・幷州(ヘイシュウ)の丁原(テイゲン)という人物に仕えることになったのです。

 

 

 

やがて丁原が騎都尉(キトイ:近衛隊長)として中央に帰ると呂布もこれに付き従い、丁原の主簿(シュボ:秘書官)となって丁原に溺愛されました。

 

 

こうしてしっかりとした居場所を得た呂布はしっかりと丁原のために尽くし……ませんでした。

 

 

霊帝の崩御から始まる一連の混乱の末に董卓(トウタク)が朝廷での権力を握るようになると、彼は宮中でも大きな兵力を持っている丁原をどうにか排除したいと考えるようになります。

 

この時董卓の謀略に乗っかかったのが、なんと丁原に近しかった呂布呂布は丁原の首を斬って、それを手土産に董卓に帰順。丁原の率いていた兵力を丸々董卓に献上してしまったのです。

 

 

その呂布の思いきりと武勇を見て感心した董卓は、呂布を丁原に代わって騎都尉に任命。大いに目をかけ、最終的に二人は義理の親子として契りを結ぶまでになったのでした。

 

 

 

その後、呂布董卓の元でその武勇を種に出世を重ね、中郎将(チュウロウショウ:禁軍指揮官)、都亭侯(トテイコウ)にまで昇進。

 

さらには敵の多い董卓のボディガードとして近侍するようになったのです。

 

 

 

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二度目の裏切り

 

 

 

 

さて、こうして董卓軍に見事に入り込めた呂布でしたが……ここも呂布の安住の地となり得なかったのです。

 

というのも、ここで問題になったのが董卓の気性。董卓はイケイケの体育会系であったらしく、些細なことですぐに腹を立てる短気で激しい気性の持ち主でもあったのです。

 

 

呂布もそんな董卓によって暴力を振るわれそうになったことがあり、それが内心では恨みとして渦巻いていたと記されています。

 

また、この時呂布董卓の侍女の一人と不倫関係にあったため、これが露見するのをひどく恐れていたという事も理由の一つとして上げられていますね。

 

 

 

そのため内心に溜まっていた不満は大きくなり、やがて呂布は、ある決心を迫られることになります。

 

 

 

――董卓の暗殺。

 

 

 

密かに董卓に反感を持っていた王允(オウイン)という文官が、ある時から急激に呂布に接近。

 

やがて呂布の心中を聞き出すと、満を持して董卓暗殺計画に加担するよう求めてきたのです。

 

 

始めは「親子だから」とヘタレ乗り気でなかった呂布ですが、王允によって「苗字も血筋も異なる親子がいますか」という言葉によって、この計画を承諾。

 

 

初平3年(192)、帝の病気快癒を祝うために宮中へやってきた董卓を迎え撃ち、呂布自らが董卓にとどめを刺して暗殺に成功したのでした。

 

 

 

呂布はこれによって、朝廷より直々に奮武将軍(フンビショウグン)、温侯(オンコウ)の地位を与えられ、また仮節(カセツ:軍令違反者の処罰権)も渡されることになりました。

 

 

しかし、董卓になり替わって都を抑えた王允らは、「董卓一派許すまじ」として、涼州人の皆殺しを表明。

 

これが仇となり董卓軍の残党は都・長安に押し寄せてきてしまい、王允や呂布らは一気に窮地に陥ってしまいました。

 

 

 

呂布はこれらを迎え撃とうとしますが、宮中に残った董卓一派の裏切りもあって敗北し、呂布は数百騎の麾下と共に長安を脱出。60日にも満たない短い天下でした。

 

 

 

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お尋ね者:呂布

 

 

 

長安を脱した呂布は、まず董卓と敵対していた諸将の中で地理的に近い袁術(エンジュツ)を頼り東進します。

 

これは、「自分は董卓を討ち取ったのだから反董卓の諸将には味方として受け入れてくれるだろう」という思惑があったと正史にはありますが、その心中はどうなっていたのか……

 

 

ともあれ、袁術呂布を恐れてすっかり戸を閉め追い出してしまいました。袁術呂布を拒絶した理由は「裏切り者を信頼できるか!」という言い分であり、さっそく董卓暗殺が裏目に出てしまったのです。

 

 

 

そこで今度は反転し、袁術の兄である袁紹(エンショウ)の元へと向かう事に。袁紹呂布たちを戦力として使えると見て、快く受け入れてくれました。

 

 

こうして袁紹に仕えることになった呂布は、袁紹と敵対する張燕(チョウエン)の軍勢と戦うことに。

 

張燕は歩兵1万以上に騎兵数千という大部隊、それも精鋭部隊を抱える難敵で、対する袁紹軍は兵数の上で圧倒的に劣勢だったのです。

 

しかし呂布は赤兎(セキト)という馬に跨り、自ら側近ら数十騎を率いて敵陣に突撃。日に何度も突撃を敢行し、数十日後、精兵で知られていた張燕らの軍勢をついに打ち破ったのです。

 

 

しかしこの戦いで気を大きくした呂布は、自らが信用されていないのを忘れたのか略奪を敢行し、さらに袁紹にも兵力の増強を要求。

 

袁紹はいよいよ呂布に猜疑の目線を向け始めたため呂布はそのまま下野することに決めましたが、袁紹軍を離れた後に袁紹自身から命を狙われるようになってしまい、元董卓配下であった張楊(チョウヨウ)に庇護を求めて逃げていくことになってしまったのです。

 

 

 

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曹操との因縁の始まり

 

 

 

さて、こうして張楊の庇護を受けることになった呂布ですが、実は張楊に会う前に一人の男に助けられていたのです。

 

その男は張邈(チョウバク)。曹操の親友としてその軍中に身を置いていましたが、当時の曹操軍は袁紹派閥の連合に属する勢力。呂布を助けることでその袁紹の不興を買う事になってしまった張邈は、次第に心理的に追い詰められつつありました。

 

 

そんな中、曹操が留守にしていた兗州(エンシュウ)で大規模な反乱が発生。張邈は弟がこの反乱の首謀格として参加していたのもあってか、反乱を主導していた陳宮(チンキュウ)の言葉に従い、曹操に反旗を翻したのです。

 

 

そんな時、張邈らから迎え入れられたのが呂布。彼は張邈に招き入れられて兗州の本拠点である濮陽(ボクヨウ)を奇襲。一気に陥落させ、曹操軍の影響力を消し飛ばしてしまったのです。

 

 

濮陽の陥落により兗州のほぼ全域が呂布たちに帰順し、曹操は滅亡寸前に。

 

急いで遠征から帰ってきた曹操軍と100日余りに及ぶ対陣の末、天災に助けられて曹操軍といったん和睦。呂布は兗州の支配をほぼ確実のものとしました。

 

……が、ここでも呂布による好調期は長く続きませんでした。

 

 

 

天災が収まり態勢が整うと、曹操軍は呂布軍への逆襲を開始。呂布は2年の内にほぼ全域を曹操により奪還され、それでも優位な状況で決戦に臨みましたが伏兵部隊によって敗北してしまったのです。

 

呂布は張邈らを半ば見捨てる形で脱出を余儀なくされ、東へと闘争。徐州を治めていた劉備(リュウビ)を頼って落ち延びていったのです。

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