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【呂布伝2】反骨の末路

 

 

 

 

呂布は1番が好き

 

 

 

曹操に敗れて再び流浪を余儀なくされた呂布でしたが、徐州を束ねていた劉備の元に逃走すると、彼は呂布をあっさりと受け入れ。

 

以前曹操が徐州を攻撃したのもあって、徐州でも反曹操の声が高まっていたのもあって、意外にも裏切り者として冷たく突き放されることはなかったのです。

 

 

 

ただし『英雄記』によると、呂布の一貫性のない行動と裏に秘めた野心は劉備にあっさりと見抜かれており、密かに警戒されたそうな。

 

呂布はそれに気づかず劉備の兄貴分気取りで、酒を酌み交わして妻に挨拶させるなど一応親愛の証は取っていたのですが……劉備ははなはだ不愉快に思っていたと記されています。

 

 

 

 

さて、そんなこんなで劉備の客分として徐州に身を置くことになった呂布ですが……この後もまもなく衝撃的な行動に移ります。

 

 

なんと、劉備が出撃して本拠の下邳(カヒ)が手薄になったのを見て、即座に襲撃。

 

この頃留守居の部隊内では揉め事が発生しており、それが原因かはたまた他の理由があるのか、呂布はここでもあっさりと反旗を翻してしまったのです。

 

 

こうして留守にしていた妻子らを人質に取られた劉備呂布に下手に出るしかなくなり、あっさり降伏。こうしてすんなり徐州を奪い取った呂布劉備を前線都市の小沛(ショウハイ)に移動させ、自身が徐州刺史を名乗って、完全に独自の勢力を盛り返してしまったのです。

 

 

 

『後漢書』によれば、この一連の流れは袁術の依頼による物とかなんとか。

 

 

 

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呂布式調停術

 

 

 

弱った劉備に止めを刺そうと、南で勢力を張っていた袁術劉備討伐の軍を派遣。劉備は絶体絶命の危機に陥ってしまいます。

 

 

ここで劉備に止めを刺せば、晴れて自軍は安泰に……。

 

配下の将軍たちはそんな思いを抱いて劉備討伐を打診しますが、この時呂布は「袁術が徐州に進出したら自分たちが孤立してしまう」という懸念の元に劉備救援に出向。

 

 

呂布が出向いたことで袁術軍は警戒して守勢に回り、それを好機と見て袁術軍に和睦を打診することにしました。

 

 

劉備は俺の弟分だ。だから助けに来たのだ。俺は平和主義で争いは好かんでな」

 

 

どの口がいうか

 

 

こうして袁術軍と和睦に臨んだ呂布が提示した条件は、「自分が戟の柄を弓で射たら即戦闘中止」というもの。やっぱり武闘派民族じゃねーか

 

こうして相手の損得勘定を無視した脅迫交渉の元、見事に戟を射倒して武威を披露。将兵らは皆驚嘆し、感心した袁術軍の武将は戦闘中止を約束し、撤退していきました。

 

 

 

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袁術と同盟など組まん!

 

 

 

さて、この呂布の武勇を聞いた袁術は、反呂布から一転。彼の武勇を使えると見て同盟の道を模索し始めます。

 

そこで袁術は使者を送り、呂布の娘を自分の息子と婚姻させることで強固な同盟関係を築くことにしました。

 

 

曹操を警戒していた呂布はこの話を承諾しますが……この時、反対意見が発生。徐州の名士である陳珪(チンケイ)が「それよりも曹操と組んだ方がいいでしょう」という提案を持ち出したのです。

 

 

この話を聞いた呂布は、以前袁術によって冷たくあしらわれた恨みを思い出して同盟を取り消すことを決意。袁術の使者を追い立てて約束を破棄し、曹操に送り付けたのです。

 

 

これを聞いた曹操は朝廷に働きかけ、呂布を左将軍(サショウグン)に任命。陳珪の願いで彼の息子である陳登(チントウ)を曹操の元に送り込み、より深い関係を築く道を探そうとしたのです。

 

もっとも、送り出したところで陳登は呂布のために曹操から官位を引き出すなどの貢献はせず帰ってきており、これが後の禍根となってしまうのですが……。

 

 

さて、一方で同盟の話をフられてしまった袁術は大激怒。将軍の張勲(チョウクン)を総大将に、周辺の独立勢力と連合を組んで呂布領に大挙して押し寄せ、小勢の呂布軍は劣勢に追い込まれてしまったのです。

 

呂布はこれに対抗するため陳珪に「お前のせいだ」と詰りながら対抗策を打診しました。

 

陳珪は敵が即席連合の烏合の衆であることに着目し、陳登と共に敵軍を内応させる策を提案。

 

 

この意見を容れた呂布はすぐに袁術と組んだ独立勢力にありったけの軍需物資を提供し、見事に仲間割れを誘発、敵軍を寝返らせて張勲の軍勢を大破することに成功したのです。

 

 

 

 

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虎狼の最期

 

 

 

さて、以前に呂布から派遣された陳登は、曹操に対してこのような申し出をしていました。

 

呂布は武勇こそあるものの行き当たりばったりで、人と組んだり離れたりを繰り返します。早めに討つべきでしょう」

 

つまり、父の陳珪ともども、陳登は曹操に内応する気で接触していたわけですね。

 

 

 

建安3年(198)、呂布はそうとは知らず曹操と手を切って敵対。先ほどまで戦っていた袁術と手を組んで、小沛の劉備曹操からの増援ともども粉砕し、完全に追い出して駆逐してしまいました。

 

 

これに対して曹操は自ら軍を率いて呂布討伐に出陣。呂布曹操から警告の手紙を受け取ると降伏しようとしますが「どのみち許されないだろう」と判断した陳宮らに阻止され、とうとう曹操との決戦に臨むことになったのでした。

 

 

呂布袁術への救援要請と共に迎撃部隊を何度も送りますが、その都度敗北した上、袁術軍も妨害を受けて徐州にやってくることはなく、最終的に下邳へと完全に追い詰められてしまったのです。

 

 

こうして下邳に籠城する呂布軍でしたが……ここで軍の弱点があらわになってしまいます。

 

 

もともと自分の好きなように動くのを好んでいた呂布に、配下の将兵の中にはどこかで疑念を抱いていた者もいたのです。

 

呂布が勝っているうちはまだよかったのですが、負け続けてしまえば、信頼関係のない上下関係ほど脆いものはありません。

 

 

 

堅城である下邳に拠って数ヶ月戦い抜いた呂布軍でしたが、曹操軍が堤防を決壊させて水攻めを仕掛けたことで、とうとう部下の心が離反。

 

魏続(ギゾク)、宋憲(ソウケン)、侯成(コウセイ)といった将軍らが陳宮を捕らえて曹操軍に降伏して呂布軍は崩壊し、とうとう呂布自身も降伏に追いやられてしまったのです。

 

 

 

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呂布曹操の前に引っ立てられると「縄がきつすぎる」と訴え出ましたが、「虎を縛るにはこれくらいがちょうどいい」と聞く耳持たず。

 

 

続けて呂布は、曹操にある取引を持ち掛けます。

 

「殿の悩みの種である私がこうして降伏したのです。もはや敵などおりますまい。私が騎兵を率いましょう。それで殿が歩兵を率いられたのならば、もはや天下に敵などおりません」

 

つまり、自身の売り込みを始めたわけですね。

 

 

人材ハンターの曹操はここで一瞬処刑を戸惑いますが、この時隣にいたのが、もともと呂布に疑念を抱き危険視していた劉備

 

 

「父を2度も裏切った男を信用なさるのですか」という劉備の一言にはっとした曹操は、結局呂布の処断を実行することにします。

 

 

「お前が一番信用できないのだ!」という叫びと共に、かつて裏切った弟分に命を握られてしまった呂布はそのまま処断。

 

降伏を拒んだ陳宮や高順(コウジュン)といった重臣ともども、許(キョ)にて晒し首にされたのでした。

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