【呂蒙伝2】国士覚醒


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【呂蒙伝2】国士覚醒

 

 

 

呉下の阿蒙に非ず

 

 

 

血の気が多くガツガツしたところのある呂蒙は、どうにも特に知識層の面々からはあまり受けが良くなかったようです。

 

例えば呉の功臣である魯粛(ロシュク)などは、史書にも明確に「浅学の呂蒙を内心軽蔑していた」とあり、呂蒙が周囲にどう思われていたのかが推察できます。

 

 

 

周瑜が病死した後、その後継となったのは、そんな呂蒙を内心見下していた魯粛

 

彼は周瑜の後任として陸口(リクコウ)へ向かう途中、ある者から「呂蒙は以前の彼とは別人です。こちらから挨拶されては?」と言われ、半信半疑で呂蒙に挨拶に向かう事にしました。

 

 

そしてそのままお互い軽く話ながら飲み交わし、宴もたけなわとなったころ、呂蒙の方から話を切り出したのです。

 

 

 

魯粛殿は、勇名高い関羽と国境を接する任地を引き継がれました。どんな考えで望まれるおつもりですか?」

 

 

 

これに対して魯粛は特に深く考えず、軽い気持ちで「高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応するさ」と適当にはぐらかします。

 

「どうせロクな考えも無く訊いているのだろう」と考えたためにこんなテキトーな返答をした魯粛でしたが、次に呂蒙の口から出たのは驚くべき言葉でした。

 

 

劉備とはいつまでも仲良くはいられないかと思われます。ましてや国境を跨いだ先にいるのは、あの関羽。前もって策を立てておかなければ……」

 

 

そして、自らの作戦を5つ献策みせたのでした。これを見た魯粛は、呂蒙の背中をトントンと叩きながら素直に感嘆の言葉を呂蒙に送り、呂蒙の母にも挨拶。1人前の将と認め、以後交遊を深めることにしたのです。

 

 

 

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『江表伝』では、呂蒙と蒋欽(ショウキン)の二人が学問を身に着けるに至る過程が書かれています。

 

 

ある時孫権は2人を呼び出し、学問を身に着けることを勧めました。それに対して2人は、「忙しいから無理です」と即答。

 

それでも孫権は2人に反論し、

 

 

「別に学士になれって言ってるわけじゃない。ただ、物事をよく知っといてほしいだけだ。だいたい、多忙というけど君たち君主である俺に比べてどうなの?

 

そんな俺なんかもいろんな本読んで勉強してるし、実際身になってる。

 

孔子だって「必死でない頭をこね回すより学問をしなさい」って言ってるし、お隣の曹操さんだって老境になってもまだ本を手放してない。

 

 

まあいいからやれって。や・れ・よ ! ! 」

 

 

 

孫権のそんな熱い説得によって学問を始めた呂蒙と蒋欽ですが……もともと性に合っていたのでしょうか。アレコレと書物を読み漁るうちに次々とのめり込み、いつしか読んだ本は数知れず。

 

呂蒙に至っては学者を論破するレベルの知識まで身に着けてしまったのです。

 

 

 

こうして呂蒙は上記の魯粛との邂逅の日を迎えますが、この時魯粛の質問に対して言いよどむことなく完璧に答えてみせ、互角の論戦を繰り広げたのです。

 

 

これを見た魯粛は「呉下の阿蒙に非ず」と感嘆し、対する呂蒙は「士別れて三日」と自信満々に受け答え、二人はすっかり仲良くなったのです。

 

 

 

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対魏戦線の立役者

 

 

 

 

さて、この当時魏との国境線は長江でほぼ区切られており、揚州でも重要拠点である盧江郡は曹操の領地となっていました。

 

曹操は盧江にて軍営の屯田を開いて食料の安定を図っていましたが、その屯田で働く兵たちがしばしば孫権領で略奪を働いて問題になっていたのです。

 

 

これを見かねた呂蒙は、屯田兵のトップである謝奇(シャキ)に帰順を促しましたが、謝奇は拒絶。そのため、強硬手段として屯田兵を奇襲して打撃を与え、謝奇の略奪に報いたのです。

 

すると、謝奇はすっかり警戒して略奪を中断。後に謝奇の配下の武将が呉に寝返るという結果に収まり、呂蒙は略奪行為を完全に抑止したのです。

 

 

 

こうなると曹操も黙っていません。今度は朱光(シュコウ)なる人物が盧江の大都市である皖(カン)を訪れ、盧江太守として大々的に屯田を開始。さらには異民族にも内通を呼びかけ、肥沃な皖を拠点として孫権軍の切り崩しにかかったのです。

 

この情勢を危惧した呂蒙は、すぐに孫権に皖城攻略を上奏。孫権自ら軍を動かし、全力で皖を奪うことになったのです。

 

 

その軍議の場では、呂蒙が作戦を立案。甘寧を先鋒の突撃隊長とし、自身はその後に続いて一気に攻め立て、曹操が本格的に動くく前に決着をつけるという作戦を立てました。

 

そして作戦実行の当日、呂蒙は自ら太鼓をたたいて兵を鼓舞。甘寧らを先頭にした精鋭部隊の猛攻によって、皖を速攻で落とすことに成功し、敵の増援到着前に勝利を飾ることに成功したのです。

 

 

 

こうして曹操との本格戦争の初戦を制した孫権軍ですが、それから1年とたたないうちに、曹操の扇動により異民族が反乱。孫権呂蒙に討伐を命じることにしました。

 

呂蒙はこの時も電光石火の勢いで反乱軍の首謀者を誅殺。殺すのは首謀者のみにとどめて残りの反乱兵たちは平民に戻してやり、武働きだけの武将でないことを証明したのです。

 

 

 

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大荒れの三つ巴

 

 

 

さて、この頃から三国の間での情勢は大荒れの様相を見せ始めます。

 

孫権からの譲渡という名目で荊州を得ていた劉備が、隣の益州を占拠。ここで孫権側から荊州返還の要請を出すことにしましたが、劉備はこれを拒否。ならばと勝手に荊州に送り込んだ太守たちも、関羽によって追い返されてしまったのです。

 

 

孫権はすぐに強硬手段に転じ、軍を編制。魯粛呂蒙らに軍を率いさせ、荊州の武力制圧に踏み切ったのです。

 

呂蒙は荊州南の長沙、零陵、桂陽、の制圧を担当し、即座に長沙と桂陽を奪取。

 

 

そして抵抗の意を示す零陵を攻撃しようかという矢先に劉備が本隊を率いて荊州に入り、両者は一触即発の緊張状態になったのです。

 

呂蒙は零陵を計略によって奪い取ると、劉備軍を足止めしている魯粛に合流。いよいよ両者は対決間近かと思われたその時、偶然か計算通りか、曹操軍が劉備軍に隣接する漢中に進軍。

 

魯粛がこれをネタにして関羽との交渉に成功したことによって、とりあえずその場は難を逃れることができたのでした。

 

 

 

荊州問題が決着すると、孫権は再び曹操軍との戦いに注力。建安20年(215)には圧倒的大軍を率いて合肥に侵攻しましたが、敵将の張遼(チョウリョウ)による奇襲により敗北。

 

この時孫権自身も危機に陥りましたが、呂蒙や凌統らの奮戦もあって何とか撤退に成功。

 

 

 

しかしこの戦いによって勢いが逆転し、今度は曹操軍が圧倒的大軍を率いて攻めてきてしまったのです。

 

一説には赤壁以上の危機と言われたこの戦いに、呂蒙は都督に選ばれて望むことになりました。

 

 

呂蒙は前もって防壁を設けて曹操軍を足止めし、その隙に弩による一斉射撃で敵を追い散らすという作戦を考案。1万もの弩による連続射撃によって曹操軍は攻めあぐねて手出しができませんでした。

 

ならばと今度は自らも防壁を作って持久戦に持ち込み孫権軍の瓦解を狙いましたが、呂蒙曹操軍の防壁が完成する前に強襲してこれを追い散らし、見事に軍勢を追い払ってしまったのです。

 

 

その後は両者に厭戦ムードが広がるまで戦線を膠着状態に持ち込ませ、和睦が成立したことによって曹操軍は撤退し、呂蒙周瑜以来の奇跡を成し遂げることに成功したのでした。

 

 

この戦いによって呂蒙は左護軍(サゴグン)、虎威将軍(コイショウグン)に就任。魯粛の死後は厳畯(ゲンシュン)が固辞したのもあって後任に選ばれ、呂蒙は再び荊州の戦線に身を投じることになったのです。

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