【呂蒙伝1】呉下の阿蒙天下に飛翔す


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【呂蒙伝1】呉下の阿蒙天下に飛翔す

 

 

 

 

 

ほとばしる功名心

 

 

 

呂蒙は中原の出の人ですが、当時中央部は荒れに荒れており、そのあおりを受けて辺境に疎開する民衆が多くいました。

 

呂蒙の一族もそんな民衆のひとつで、幼少期に江南に移住。そこで貧しい生活を送っており、これが呂蒙の功名心に火をつけたようです。

 

 

 

呂蒙の並外れた功名心が表に現れたのは、彼が15歳前後の時。

 

当時呂蒙は、姉婿の鄧当(トウトウ)なる人物の元に身を寄せていましたが、鄧当が孫策(ソンサク)の部将として戦争に駆り出されると、なんと呂蒙もこっそり従軍。

 

 

鄧当はさすがに呂蒙を叱りつけましたが、叱られた呂蒙は一向に帰ろうとせず、結局最後まで付き従ったそうです。

 

 

その後家に帰った時に母親にもこっぴどく怒られたようですが、呂蒙は以下のように反論。

 

 

「こんなひもじい生活を脱却するためです。もし手柄を立てれば大富豪にもなり得るのだから、危険を承知でいくべきだと判断しました」

 

 

呂蒙の反論を聞いた母親は、それ以上何も言わず、呂蒙の心を憐れんだのでした。

 

 

 

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そんな並外れた功名心は、時として問題も引き起こします。

 

というのも、鄧当の下にいた役人の一人は呂蒙の事が大嫌いで、「こわっぱの無駄飯食らいに何ができる!」と散々悪態をついていたのです。

 

 

ある日、その役人がまたしても面と向かって呂蒙を侮蔑すると、この時ばかりは何かが切れたらしく、なんと呂蒙は役人を殺害。そのまま同郷の出身者の元に逃亡してしまいました。

 

が、しばらくして「このままでは駄目だ」と思ったのか、校尉の袁雄(エンユウ)なる人物に仲介を頼んで殺人の罪を自首。孫策の元に連行されてしまいました。

 

 

……しかし、この自首こそが呂蒙の出世街道の始まりに。

 

 

実は呂蒙の事を弁明してくれる人物がおり、その人物の言葉と直接の面会を経て、孫策呂蒙の非凡さを看破。

 

そのまま側近として仕えることになり、鄧当の死後はその後を継いで別部司馬(ベツブシバ:非主力隊隊長)に任命されたのでした。

 

 

 

 

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ド派手な閲兵式

 

 

 

こうして1軍の長になった呂蒙でしたが、建安5年(200)に呂蒙を見出してくれた孫策が死去。後を弟の孫権が継ぐことになりました。

 

孫権は勢力の長になると、まずは軍団の再編成に着手。雑多な少数部隊を統合して、軍団編成をシンプルにしようと考えていました。

 

 

 

これを知った呂蒙は、密かに真っ赤な軍服を購入し、指揮下の兵たちに支給。孫権の目を引くためガン目立ちする服装で閲兵式に臨み、ひときわ異質な集団として周囲の注目を独り占め。

 

しかも訓練も見事にされてぐんぜいがしっかり統制されていたことから、孫権は大喜びで呂蒙軍の兵士を増員。呂蒙は軍団統合の波に消される事無く、逆に乗りこなして見せたのでした。

 

 

 

 

 

 

阿蒙奮闘記

 

 

 

自軍の増強を果たした呂蒙は、その後丹陽(タンヨウ)の異民族討伐に参加。至る所で功績を上げ、軍才と率いる軍団がハリボテではないことを遺憾なく見せつけます。

 

こうして自らの名を歴史に刻みつけた呂蒙は、平北都尉(ヘイホクトイ)、広徳(コウトク)県長に就任。待ち望んだ軍役人としての地位を得て、とうとう若き日の「手柄を立てて裕福層になる」という夢を完全にかなえてしまったのです。

 

 

 

その後、荊州の黄祖(コウソ)討伐に従軍。孫権軍の先鋒部隊として、黄祖軍の陳就(チンシュウ)なる武将と対峙しますが、なんと呂蒙は陳就を撃破し、討ち取ってしまったのです。

 

この大勝利により、黄祖軍の守りは壊滅。黄祖は慌てて城から逃げ出しましたが、そのまま孫権軍によって捕縛。孫権はついに念願の黄祖討伐を成し遂げたのでした。

 

 

この功績は孫権にも喜ばれ、「お前が陳就を討ち取ったのが勝因だ」と賞金として銭1千万を授与。さらに横野中郎将(オウヤチュウロウショウ)に任命され、さらに重用されることとなったのです。

 

 

 

またこの年には赤壁の戦いが勃発しましたが、呂蒙もこの戦いに参加。曹操軍を打ち破る際にも部将の一人としてその様を間近で見ていたのです。

 

 

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呂蒙覚醒

 

 

 

さて、赤壁の戦いに勝利した後には都督である周瑜(シュウユ)に引き連れられて南郡(ナングン)攻略に乗り出しましたが……ここまで武勇一辺倒の活躍であった呂蒙が、突如覚醒したように頭脳での働きを見せるようになります。

 

 

南郡は名将の曹仁(ソウジン)が守っていましたが、周瑜らが甘寧(カンネイ)を別動隊として夷陵(イリョウ)攻略に向かわせると、曹仁もそれに合わせて騎兵歩兵の混合部隊を夷陵に派遣し、甘寧を逆に包囲してしまいました。

 

 

 

絶体絶命の甘寧からは救援要請が送られてきましたが、周瑜の本体も曹仁軍を攻撃中で、下手に軍を避けない状態。

 

軍中では「こっちも危険が多く、救援に兵を割けない」という声が圧倒的多数でしたが、呂蒙はそんな中、一人だけ別の案を出します。

 

 

「凌統(リョウトウ)にいったん留守を預け、全軍で甘寧を救出しましょう。包囲を破って友軍を救出するのにあまり時間はかかりませんし、その短時間であれば、凌統ならば十分に耐えきれるはずです」

 

 

呂蒙の説得によって納得した周瑜らは、この意見を採用。同時に呂蒙は「険阻な道の要所に障害物を置けば、騎兵から馬を収奪できるはずです」と献策し、これも300の別動隊を編成し実行することにしました。

 

 

結果は呂蒙の言う通り。夷陵に着いて即日から戦いを仕掛け、意表をついて敵軍の半数以上を討ち取り、甘寧を救出する事に成功しました。

 

また、夜陰に紛れて撤退する騎兵隊も障害物によって撤退を邪魔され、結局馬を捨てる事を決断。ここでも相手の軍馬を300ほど入手し、こちらも呂蒙の献策通りになったのです。

 

 

 

計略通りに事が進んだことにより、孫権軍は勢いづいて南郡攻略にも精が出ます。強敵の曹仁相手というのもあって結局は1年もの年月を費やすことになりましたが、最終的に曹仁は南郡を捨てて撤退。

 

この重要拠点を得たという結果には、呂蒙による計略も少なからず影響していたのです。

 

 

 

武一辺倒の猪武者としてこれまで活躍してきた呂蒙ですが……この頃からすでに変化が生じつつあったのです。

 

 

 

軍馬を得るくだりの話はなんともしょっぱい感じもしますが……実は南船北馬という言葉もある通り、呉では壊滅的なまでの軍馬不足に悩まされていました。

 

これまでは水軍メインで長江流域での戦いでしたが、南郡の所在は長江の北岸。つまりそれ以降は陸軍での戦いも想定される情勢に変化しつつありましたし、何より陸戦を得意とする曹操軍と相対するには、同じ陸戦能力も強化する必要性があったのです。

 

 

その辺を考えると、このみみっちい泥棒劇も、呉にとっては大きな戦果と言えるのではないでしょうか。

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