【張遼伝2】合肥の鬼神


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【張遼伝2】合肥の鬼神

 

 

 

 

合肥の鬼神

 

 

さて、張遼を語る上で忘れてはならないのが、合肥の戦い。

 

 

曹操孫権領の濡須(ジュシュ)を攻めきれず撤退した際、万一の備えとして張遼、楽進、李典の3名に7千の軍勢をあずけて合肥に駐屯させました。

 

そして曹操は護軍(ゴグン:軍事の監督者)である薛悌(セツテイ)なる人物に小さな箱を授け、「もし孫権が来たらこいつを空けるように」と言い伝えていたのです。

 

 

そして建安20年(215)、ついに孫権軍が10万とも言われる大軍を率いて合肥に侵攻。万一の懸念が実際のものとなってしまったのです。

 

 

薛悌が持っていた箱を開いて見てみると、「張遼と李典は城を出て迎撃。楽進は薛悌と共に城を守るように」との指示が。

 

 

 

それを聞いた張遼はさっそく軍議を開き、自らの所感を述べました。

 

 

「殿ははるか西に外征へと向かっており、この戦いへの救援は間に合わないだろう。したがって、敵軍の包囲が完成する前に突き崩すようにという意味でこの命令書を出されたものだと思われる。ここは決死隊を率いて奇襲を行うべきだろう」

 

 

この意見には、張遼に内心恨みがあるはずの李典も賛同。これは「味方として国家のために戦う者に私情を向けるわけにはいかない」という本人の考えからの物だったとされています。

 

 

かくして奇襲作戦を実行することにした張遼は、決死隊800人を招集し、牛肉をふるまって将兵を労い、翌日には早速奇襲を決行。

 

 

張遼自身が先頭に立って手始めに孫権軍の兵数十人と将校2人を抹殺。大音声を上げて敵陣を突き崩し、孫権軍本陣にまで迫っていったのです。すでに意味が分からん

 

 

孫権は仰天して恐慌。すぐに小高い丘に登り、長い戟を持って身を守り、そうこうしている間に孫権軍が張遼を幾重にも包囲。一度の奇襲で孫権を討つことはできませんでした。

 

 

張遼は「ここが潮時か」と大軍勢の包囲を破って撤退。この最中も、包囲を1度破りながらも味方が取り残されているのを知り、即座に取って返して取り残された味方を回収という意味不明な偉業を成し遂げています。

 

 

結局それからは孫権軍は恐慌状態。思い切って立ち向かえる者もおらず、半日もの間戦闘は継続。これによって士気の差は歴然となり、孫権軍は10日ほどの包囲の末、圧倒的優勢にもかかわらず撤退を余儀なくされたのです。

 

 

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行きも怖いが帰りはもっと……

 

 

 

意気消沈して返っていく孫権軍。それでもその数は圧倒的な物で、普通ならば追い返せただけよしとして追撃しようなどとは思えない兵力差でした。

 

……が、張遼はそんなものお構いなしに逃げ去る孫権軍を猛追。最後尾で撤退指揮を執る孫権にまとめて襲い掛かったのです。

 

この時孫権を守るのは、近衛兵千人余り。

 

 

突然の追撃軍に成す術がなく、孫権軍はたちまち大混乱に陥り、その陣容は大きく崩されてしまいました。

 

しかも孫権軍の背後は川。退路には橋が1本かかっているだけで、張遼はまさにあと1歩のところまで孫権を追い詰めてしまったのです。

 

 

 

結局、敵将である凌統(リョウトウ)らの決死の活躍によって孫権を仕損じてしまいましたが、それでも孫権軍に大いに恐怖を刻み込むことに成功。

 

以後、孫権領内では泣いた赤子を黙らせる際に「泣いたら張遼が来るぞ」という謎の脅し文句が使われるようになったとか。

 

 

 

余談ですが……『献帝春秋』には、この時張遼が孫権を捉え損ねたことに関する逸話が載っています。

 

張遼は一人の兵を捕らえ、一つ質問。

 

「そちらの軍に、やたらと騎射の上手い赤髭で背は高いのに短足の将軍がいたが……あれは誰だ?」

 

捕虜が答えるには、「それこそが孫権様だ」と。

 

 

張遼は隣にいた楽進に、「あと一歩だったな」と悔しい胸の内に語ると同時に、孫権の武勇を賞賛したとか。

 

 

美談のはずなんですが……孫権にとっては無駄に騎射の上手い赤ヒゲ短足野郎という、どんな顔をすればいいのかわからない微妙なあだ名が付けられた瞬間でした。

 

 

 

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その後の張遼

 

 

 

合肥の功績から征東将軍(セイトウショウグン)に任命された張遼は、翌年の孫権征伐にも参加し、曹操から改めて合肥の功績をほめられて手勢を増員。

 

 

その後建安24年(219)には、曹仁(ソウジン)の窮地を救うために援軍に出ますが、到着前に勝利という形で戦いは終結。この時も曹操に自ら労いを駆けられるほどに信任されていたのです。

 

 

 

さて、そんな曹操の死後曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐと、張遼は前将軍に転任。

 

その後一応の同盟関係にあった孫権が再び敵対すると、張遼は再び合肥に赴き、爵位は都郷侯(トキョウコウ)に昇進。

 

孫権が再び降伏すると、都に帰還。自分や自身の母のために館まで用意され、合肥を生き抜いた決死隊は全員近衛隊へと取り立てられて行きました。

 

 

 

そんな張遼も、黄初2年(221)には病に倒れ、曹丕だけでなく元部下の兵たちも一様に彼を心配します。

 

が、張遼の容体が少し良くなると、彼は再び戦場に立つことを選択。今度こそ完全に決裂してしまった孫権との決戦に臨むべく、再び東にて孫権軍と対陣。

 

孫権配下の将である呂範(リョハン)の軍を周囲と連携し打ち破りますが、この時から病が重くなり、ほどなくして死去。

 

 

諡は「剛侯」とし、子の張虎(チョウコ)が跡を継ぎました。

 

 

ちなみに病気をおしての出陣をしながらも相変わらず恐れられ、孫権は「あんな奴が病気ごときで弱体化するはずがない」と兵たちに注意を促したと言われています。

 

 

 

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人物像

 

 

 

陳寿にはこれといった人物評が与えられておらず、純粋に「張遼は楽進、于禁、張郃、徐晃と並んで魏の中でも5本指に入る名将」とされているのみです。

 

が、人柄がわかる逸話の片鱗を拾ってみると、「無意味に敵を作らない優等生」としての側面が見えてきます。

 

 

例えば、曹操曹丕からは常にVIP待遇を受けるほど気に入られていたり、あの気難しい関羽とも友諠を結び、向こうから歩み寄ってきたとはいえ仲が悪かった楽進や李典(特に李典)との連携をきちんと取れたりと、優等生な人格を裏付けする記述には事欠きません。

 

 

また、部下との仲も良好だったようで、彼が病気に倒れたと聞いた部下が見舞いのために殺到したという話もあり、なかなかどうして人には慕われやすい人物だったのかもしれませんね。

 

 

なおそりの合わない人物や仲違いの逸話も少なくないなど、協調性という意味では若干難があった可能性(ry

 

 

では最後に、対人関係で残っている逸話をちょっと見てみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

張遼と昌豨

 

 

 

張遼が夏侯淵(カコウエン)らと共に、旧知の仲である昌豨(ショウキ)討伐を行っている時の事。昌豨軍の攻撃がまばらになってきたのを見た張遼は、昌豨は実は降伏したいのではないかと思い始めます。

 

 

そこで張遼は夏侯淵に願い出て、昌豨との対面を試みることに。

 

 

早速使者を遣って、「曹操からの言伝」と偽って昌豨をおびき出し、二人で対面して説得。すると昌豨はすぐに降伏を決め、味方にsることに成功しました。

 

 

 

こうして昌豨を味方につけた張遼は、なんと単身で昌豨の砦に上がり、彼の家に上がりこんで妻子に挨拶。そのまま昌豨を連れて曹操の元へと報告に向かったのです。

 

 

これを聞いた曹操は昌豨を帰らせた後、さすがに張遼に対して叱責。

 

 

「仮にも1軍の大将なんだから、軽率に単独行動をとって、ましてや敵に会いに行くなんてしちゃダメでしょ」

 

 

張遼はすぐに謝罪した上で、「昌豨に再び叛逆する度胸がないと踏んだからこうしたのです」と弁明したとか。

 

 

 

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張遼、反省する

 

 

 

張遼があるとき、胡質(コシツ)なる人物を自分の元に置きたいと考えたのですが、胡質からはきっぱりと断られてしまいました。

 

これに納得できない張遼は、今度は自分から胡質の元に出向いてみると、胡質はすぐにその理由を説明。

 

 

「将軍は武周(ブシュウ)という者を昔は賞賛漁っていましたが、今では些細な事から仲違いされている様子。あれだけの人物ですら将軍のお眼鏡にかなわないのならば、私のような非才の者では上手く付き合えるはずもありません」

 

 

思えば、過去に武周と(恐らく彼の能力面)で諍いを引き起こし、そのままになっていたはず。

 

胡質の言葉に感銘を受けた張遼は己を反省し、武周と改めて親交を結ぶことにしたのでした。

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