【張遼伝1】曹操軍のエース


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【張遼伝1】曹操軍最強候補

 

 

 

 

紆余曲折あって曹操軍へ

 

 

 

張遼の先祖は、漢の黎明期に匈奴(キョウド)の異民族を騙し討ちにしようとした実行犯でした。しかし作戦は失敗し、匈奴の王の恨みを買っていました(一説には漢の武帝から恨まれたとも)。そのため苗字は元の物から「張」に替え、ひっそりと暮らしていたとされています。

 

 

そんな大変な家系に生を受けた張遼ですが意外にも地元名士のような扱いを受けていたようで、若くして郡の官吏に就職というなかなかのエリートコースに進むことが出来ました。

 

しかし本人はすでに常軌を逸した武勇の持ち主であったため、それを知った幷州刺史の丁原(テイゲン)に召し出され、すぐに武人としての道に進路を転換。後に兵を連れて都・洛陽へと上洛を果たすことになったのです。

 

 

その後、強権を握っていた何進(カシン)の命令で募兵のため再び北に戻されて千人余りの兵をそろえることに成功しますが、帰還する途上で何進が殺されたという報告を受け、さらにはその後を継ぐ形で洛陽を手中に収めた董卓(トウタク)によって主の丁原も死亡。

 

 

 

進退を迫られた張遼は兵を率いて董卓軍に参入することを決意し、その董卓が内乱で殺されると、次は董卓暗殺の首謀者の一人である呂布(リョフ)に仕えて騎都尉(キトイ:近衛兵長)に昇進。

 

その直後に呂布までもが追いやられて都を脱すると、張遼はそれに随行。呂布の元で様々な戦いに参加し、東方の徐州(ジョシュウ)を呂布が奪い取ると、張遼は魯(ロ)の国相に28歳の若さで任命される等、呂布の信頼を得るに至ったのです。

 

 

 

しかし、その呂布の勢いも長くは続かず。呂布は群雄として発展途上の曹操(ソウソウ)によって打ち破られ、そのまま死亡してしまったのです。

 

 

張遼は結局、軍勢を率いて曹操に降伏。即座に中郎将(チュウロウショウ:近衛隊の指揮官)となり、関内侯(カンダイコウ)の爵位を得ることとなったのです。

 

 

 

 

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曹操軍外様のエース

 

 

 

 

曹操軍の1員に加わった張遼は、そこから一気に才能を開花。戦場では武勲を幾度も立て、すぐに裨将軍(ヒショウグン)に昇進。

 

建安5年(200)、官渡の戦いで袁紹軍に勝利すると、張遼は別動隊を率いて東方の魯国へ進軍。各県を平定し、曹操の領土拡大に貢献しました。

 

この時、旧知の間柄である昌豨(ショウキ)なる人物を帰服させ、一時的にとはいえ曹操軍の東部の内乱を鎮静化することに成功しています。

 

 

その後、張遼は再び曹操本隊と合流。袁紹死後に後継争いを起こした袁譚(エンタン)、袁尚(エンショウ)らの討伐でさらに功績を上げ、それぞれの本拠地である鄴(ギョウ)や南皮(ナンピ)の攻略でも目覚ましい功績を立て、さらには各地で猛威を振るっていた賊軍征討にも大いに貢献。

 

その活躍ぶりは相当なものだったようで、曹操があらかた袁紹の子らを駆逐して鄴に帰還した際には、曹操自ら張遼の手を取って自分の馬車に乗せ、その功績を褒め称えたほどだったのです。

 

ほどなくして、張遼は盪寇将軍(トウコウショウグン)に昇進。楽進(ガクシン)や于禁(ウキン)と並び、魏のトップ3として称されるまでになったのです。

 

 

その後一時的に曹操が南へ目を向けたことがありましたが、この時も張遼は従軍し、荊州江夏(コウカ)の各県を平定。都亭侯(トテイコウ)に封ぜられ、曹操からの期待はさらに大きな物となったのです。

 

 

 

そして曹操の目は再び北に。いよいよ袁紹の息子らと同時に北方の異民族である烏丸(ウガン)を征討するために軍を進めた時にも、張遼は主力部隊として従軍。

 

この時、烏丸の軍勢とは突如の遭遇戦となりましたが、張遼は意気盛んに交戦を主張。その気概に感銘した曹操は張遼に将軍旗を授け、張郃(チョウコウ)と並んで先陣に起用。奮戦し、ついには烏丸の王である蹋頓(トウトン)を生け捕りにすることに成功。

 

かくして北の情勢はすっかり落ち着き、後に袁尚らの首も曹操の元に届けられたことで、曹操は河北を平定。いよいよ天下の大半を握った曹操は、本格的に南方平定に乗り出すことにしたのです。

 

 

 

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張遼流反乱討伐術

 

 

 

さて、曹操はその後南方に目を向け、一気に荊州平定を実現。このまま天下に突っ走ろうかというところ、赤壁の戦いにて大いに敗北。最終的に三国の膠着という構図ができてしまい、天下への夢はついえてしまうわけですが……

 

そんな一連の戦いのさなかであるある時の事。

 

 

軍中で反乱計画を立て、火をつけて騒ぎ立てた者がいたせいで軍中が大混乱に陥るという事件が発生しました。

 

しかし、張遼は冷静沈着で、近くにいる兵に「誰かが混乱させようと企んでいるな。いいから無関係の奴は座っていろ」と命令。

 

こうして軍中を静かにさせた後、自らは親衛隊数十人を率いて陣営のど真ん中で仁王立ち。混乱が落ち着いたことで反逆者を見つけ出すことに成功し、即座に首謀者を処断したのでした。

 

 

 

 

建安14年(209)に梅成(バイセイ)と陳蘭(チンラン)という人物が異民族である氐族(テイゾク)とつるんで反乱を起こした際も、張遼は陳蘭討伐に参加。

 

この時、同時に于禁らの攻撃を受けていた梅成はすぐに降伏。それを受諾した于禁らは包囲を解きますが、なんと梅成はすぐに陳蘭と合流し再び反旗を翻し、狭い山道の先にある堅固な砦へと引きこもってしまったのです。

 

 

張遼はそんな狭い道も構わず進もうとすると、さすがに配下の将軍らが危険であると制止。

 

 

しかし張遼は逆に「狭い道での戦いともなれば、要は『1対1』の戦いという事になる。勇者なら臆せず進み、勝つこともできる」と主張し、結局進軍を再開。

 

臧覇(ゾウハ)や于禁らのバックアップもあって、ついには梅成、陳蘭を共に討ち果たしてしまったのでした。

 

 

えぇ……

 

 

 

この報告を受けた曹操は大喜びで、すぐに反乱討伐に関わった将軍たちを招集し、その功績を称えることにしました。

 

 

この時、張遼の功績はとりわけ大きく賞され、「険しい山道を踏み越えて首謀者らを討ち取った功績は大きい」と特に喜ばれ、領地の加増及び、仮節(カセツ:軍事処罰権のひとつ)を与えられるに至ったのです。

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