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【公孫瓚伝1】イケメン白馬の外道な騎士様

 

 

 

 

イケメン北方に立つ

 

 

 

 

公孫瓚の家は1郡を任される太守と同程度の高給取りの重役らしく、公孫瓚も若い頃に地元の遼西郡の役人として取り立てられました。

 

とはいえその立場は家柄から比べるといささか身分の低い書記官程度。母親は側室で身分が低いらしく、そのためにあまり大事にされていなかったのです。

 

 

しかし、その見た目は大変立派で美しく、声も大きいという人物であったため、侯(コウ)太守に「将来有望」と見なされ、一気にお近づきに。なんと太守の娘を娶り、その援助で学問を学ぶことになったのです。

 

この時公孫瓚が指示したのが、高名な学者であった盧植(ロショク)。この時に劉備と出会い、彼の兄弟子として共に盧植の下で学問を学んだのですね。

 

 

 

ともあれしばらく学業に精を出した公孫瓚は、一通り学を修めると再び郡の役人に復帰しました。

 

 

しかし、役人に復帰して間もなく、上司に当たる劉(リュウ)太守なる人物が、法に触れたとして連行されるという事件が発生しました。この時公孫瓚は、なんと自分の身分では立ち入りを禁止されていた場所に衣服を変えて入り込み、劉太守に随行。そのまま雑役を代わりに努めたのです。

 

さらには劉太守が日南郡(ニチナングン:ベトナム)に流刑が確定すると、公孫瓚もこれに随行するという意思を表明。洛陽に上洛し北虻山(ホクボウザン)なる山の中で酒と肉を持ち出して先祖を祭り、「上司と共に日南へ行くこととなりました。あの地では風土病も多く、もう帰ってこれないかもしれません」と報告。

 

そして拝礼の後感情を高ぶらせて立ち上がり、多くの者はそんな公孫瓚の姿に魅了されたのです。

 

 

公孫瓚の見事な決意を知った人の中ではすすり泣いてこの決意を称える者もおり、そんな思いが届いてか、話を聞いた朝廷は流刑を取り消し。劉太守は赦免され、公孫瓚が南の地へ向かう事はなくなったのでした。

 

 

 

 

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異民族殺すマン

 

 

 

後に公孫瓚は孝廉(コウレン:地元推挙制度)にて推薦を受け、遼東属国(リョウトウゾッコク:異民族が多い場所を属国としていた)の長吏(チョウリ:ここでは副官。つまり属国のナンバー2)として北方の平定、鎮圧の仕事を与えられました。

 

 

そんなある時、公孫瓚が数十の部下を連れて砦の見回りをしていた時、漢に敵対していた鮮卑(センピ)族の一段と遭遇しました。

 

公孫瓚はすぐに物見櫓の付近まで引き下がりましたが、辺りに撤退できる場所も無し。

 

 

そこで敵中突破を決め込み、部下たちに「ここを突破しなければ皆殺しにされてしまうぞ」と脅し付けると、自ら先陣を切って突撃。

 

部下の大半を失ってしまいましたが、数十人を殺傷しなんとか脱出に成功したのです。以後、鮮卑族は公孫瓚の武勇に一目置き、領土への侵入は控えるようになりました。

 

 

 

その後は、幽州でも重要拠点である涿県(タクケン)の県令に出世。

 

後に西の涼州で大規模な反乱が起きた時、幽州からも騎兵3000人の出動要請が出されました。公孫瓚は、その騎兵隊の指揮官を任され現地へ直行。

 

しかし薊(ケイ)まで軍勢が向かったとき、思わぬ事件が発生しました。なんと、漢王朝に不満を抱えていた張純(チョウジュン)が反乱を引き起こし、異民族や漢への不満を共にする民衆を巻き込んで敵対してしまったのです。

 

一説には十万を数えるとされるその軍勢は各地を荒らしまわり、近隣の土地を陥落させ、太守や重役を殺害して回りました。

 

 

公孫瓚はこれに対して自軍を率いて張純らを攻撃。なんと反乱軍の一軍を打ち破ることに成功してしまったのです。

 

この功績が認められ、公孫瓚は騎都尉(キトイ:近衛隊長)に昇進。しかし張純は討ちもらしてしまっており、その後も反乱勢力は勢いを増していき、公孫瓚はしばらく反乱軍との戦いに身をやつすことになります。

 

 

勝ちに乗って遼東付近にまで赴いて張純らを攻撃、ここでも敵軍を大いに打ち破った公孫瓚でしたが、この時追撃で深入りしすぎたため、逆に包囲を受けて一転危機に。そのまま補給が続かず200日にもわたる包囲を受け続け、結局双方撤退という痛み分けに終わったのです。

 

 

その後も公孫瓚は都から送られた援軍らとこの反乱の鎮圧に5年以上もの歳月をかけて戦い続けましたが、相手の勢いは強く一進一退の戦況に。

 

 

この状況を見かねた朝廷は、今度は攻撃の手段を変え、ある人物を北方へと派遣したのです。

 

 

 

 

 

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劉虞、嫌いです

 

 

 

揺れる幽州の反乱に止めを刺すべく送り込まれてきた人物の名は、劉虞(リュウグ)。彼は戦争こそ苦手ですが、徳と信義を持ち合わせた人格者。以前も幽州を力でなく慈愛で鎮撫した功績が認められて、幽州牧として赴任してきたのです。

 

 

劉虞は赴任するとさっそく反乱勢力に対し、「これ以上の抵抗は無意味。さあ、首謀者である張純の首を渡せ」と使者を出して呼びかけることにしました。

 

すると、以前劉虞に恩があった烏丸(ウガン)族らはすぐに帰順することを決め、喜んで劉虞に返事を送ったのです。その中には、反乱勢力の主力であった丘力居(キュウリキキョ)なる人物の姿もあったのです。

 

 

 

さて、こうなると面白くないのが、武で統制しようと考えていた公孫瓚たちです。

 

公孫瓚は、なんと劉虞の手柄を妨害するため、こっそりと人を遣って烏丸からの使者を殺害。連絡が取れないようにしてやることに。

 

しかし、烏丸らが異変に気付くと、今度は間道沿いにわかりにくいよう使者を派遣。結局使者は劉虞の元にたどり着き、彼の手柄は明らかになってしまったのです。

 

 

こうして反乱の必要がなくなった烏丸族はピタリと戦いを停止。都合が悪くなって慌てて逃げだした張純も鮮卑族へ亡命する最中に殺され、反乱はほぼ完全に収まってしまいました。

 

幽州ににらみを利かせている軍も公孫瓚率いる軍勢を除いてすべて帰ってしまい、いけ好かない劉虞はこの活躍で太尉(タイイ:軍事のトップ。国防長官)へとなってしまったのです。

 

 

 

 

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劉虞との本格衝突

 

 

 

しかし、公孫瓚にとって悪い事ばかりではありません。董卓(トウタク)が都に入り専横を極めてくれたおかげで、公孫瓚のような武官にも官位が与えられました。

 

公孫瓚は董卓によって、奮武将軍(フンブショウグン)、薊侯(ケイコウ)として武官の中でも大権を得ることができたのです。

 

 

とはいえ、劉虞との犬猿の仲ともいえる壊滅ぶりは相変わらず。

 

劉虞は袁紹(エンショウ)、韓馥(カンフク)といった河北に勢力を得ている面々と仲が良かったのですが、同時に董卓からも朝廷内に引き込もうと考えるほどの引っ張りだこで、要するに争いの中心で多くの諸侯が取り合うほどの大身でした。

 

 

そんな中で紆余曲折あって、袁術(エンジュツ)がその軍事力を奪おうと劉虞に軍勢の派遣を依頼。公孫瓚は袁術を危険として反対しましたが、劉虞は気にせずそのまま千の軍勢を袁術の元に贈ってしまったのです。

 

 

これに対して公孫瓚も、バツが悪くなったため袁術に軍勢を提供し、その指揮官として弟の公孫越(コウソンエツ)を派遣しました。

 

しかし、その裏ではやはり劉虞への陰謀を忘れないのが公孫瓚という人物。彼は袁術の元に引き留められていた劉虞の子を逮捕して劉虞郡強奪に加担する動きを見せたのです。

 

これにより両者の仲はいよいよ決裂し、後にとんでもない事態を招くことになってしまったのです。

 

 

ちなみに袁術の元に送った公孫越は、袁紹袁術による勢力争いの中で、袁術軍と共に戦い戦死。

 

袁紹に弟を殺された公孫瓚は、ここから袁紹とも物理的にぶつかるようになっていくのです。

 

『魏氏春秋』では、普段からの公孫瓚と劉虞のスタンスの違いによる対立が書かれています。

 

劉虞は異民族に対し温情による寛大な処置を行っていましたが、公孫瓚はそんな劉虞に真っ向から反対。

 

「奴らはつけあがりやすく、その統治は難しい。ならばこそ、力で無理矢理押さえつけるしかない」

 

つまり、公孫瓚は徳による異民族統治をその場しのぎの利害関係にしかならないと考えていたわけですね。

 

 

というわけで、公孫瓚は常に劉虞が異民族に与えた物を略奪に向かいその政治を妨害。訪ねてきた劉虞に対しても仮病で追い返して無視を決め込むようにしたのです。

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