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【公孫瓚伝3】イケメンの人となり

 

 

人物評

 

 

 

公孫瓚は非常に軍事能力に優れ、とても強力な騎馬隊を有していた武闘派の群雄の代表格です。

 

実際にその騎馬隊は馬の扱いに長けた北方民族をも震え上がらせ、いくつもの危地をその精強さで乗り越えてきました。

 

 

 

しかし、その人物評は……率直に言って芳しい物とは言えません。

 

一応義に厚いようなエピソードは持ってはいますが……彼の人格を義侠の好漢として好意的に評価するのは、三国志演義を媒介としたメディアや演義を語るブログのみ。正史を媒介とした場での彼の評は、お世辞にも良い物とは言えません。

 

 

陳寿はその立場もあって、公孫瓚を悪役として以下のように評しました。

 

 

易京という恵まれた地を保守しながら全滅を待つばかりであった。

 

他群雄と一緒に「州や郡を有しながら、その資質は一平民にも劣る物だった」とも言われており、もはや全否定と言ってもよいくらいに扱き下ろされています。

 

 

また、裴松之の意見も概ねこれに同意といったところ。

 

「易京の中だけは、天下から身を隠すことができる」という旨の童謡があるが、これは公孫瓚が余計な野心を働かせないようにと作られたものだろう。しかし公孫瓚は調子に乗って野心を膨らませ、袁紹を滅ぼそうと画策した。敗北を呼んだのは当然の帰結だ。

 

 

おお、もう全否定……

 

 

とにかく公孫瓚のその人物面だけは、評価してくれる人が大幅に少ないと言ってもよいでしょうね。

 

当時有数の仁者として名を通していた劉虞を殺したのですから、ある意味この評価は当たり前。しかし、その家庭環境などを鑑みるとなんだか寂しい人物評と言えますね。

 

 

 

ちなみに公孫瓚が率いていた精鋭騎馬隊の中には選りすぐりのエリートによって構成された白馬の軍勢がおり、「白馬義従」という名前で恐れられていたのです。

 

公孫瓚自身も白馬に乗って武働きによって周囲を恐れさせており、異民族からは「白馬長吏」と呼ばれていたことが『英雄記』に書かれています

 

 

 

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極度の名士嫌い

 

 

 

なぜこのような横暴な性格になったのか……その理由の一環として、「公孫瓚は名士である父からよく思われておらず、その事がコンプレックスになったのでは?」という意見があります。

 

公孫瓚の家柄は決して悪くなく、父は北方でも有数の大富豪でした。

 

しかし、肝心な母親の身分は、当時の価値観ではカス同然。当然ながら公孫瓚の父からしても彼の母は側室のどうでもいい女であり、その息子である公孫瓚の扱いもそれ相応といったところだったようなのです。

 

 

証拠に、まあ家の恥とならないためにもしっかりとした役職には就かせてもらっていますが、家柄からするとはるかに格下の位であり、いかに公孫瓚が期待されていなかったかがうかがい知れる前半生だったのです。

 

 

そんな公孫瓚を助けたのは、名士でなく武官ともいえる役職の太守。一応は名士層でなければまず就けない役職ではありますが、お高く止まった人物よりも武断派の人物が多い役職です。

 

文官として胡坐をかいている名士たちから、公孫瓚はどんな目を向けられていたのでしょうか? 何となく、想像はできる気がします……

 

 

 

さて、そんなこんなで複雑な家庭事情で育った公孫瓚は、おそらく名士の事が殺したくなるほどに嫌いになったのでしょう。

 

なんと役人の家に優秀な子が生まれると、必ず目をつけて極貧生活に叩き落していったのです。

 

 

本人は「良いところの出の奴が俺に感謝などするものか。良い身分に取り立てても、きっと当然としか思わんだろうさ」などと語っていましたが、名士層へのやり場のない怒りが無差別に向けられていたようにも見えてきます。

 

 

劉虞を目の敵にしたのも、武官と文官の良くある反目というのもありますが、それ以前に公孫瓚からしたら「皇族なんぞゴミ同然じゃねえか」という思いがあり、劉虞のやることなすことネガティブに見えたのかもしれませんね。

 

 

 

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身分の低い奴、大好き!

 

 

 

さて、では公孫瓚は誰を重用していたのかというと……決まって身分の低い者、凡庸な者でした。

 

 

これには後世の歴史家たちも「名士を軽んじるとんでもない奴だ」と口をそろえていっていますが……まあ名士に恨みがあるのなら、ある意味わからなくもないといったところ。

 

 

もしかしたら同時期に袁紹が行っていた名士優遇政策も、公孫瓚の名士嫌いを加速させたのかもしれません。

 

というのも、名士も人の子。優遇してくれるのならば迷わずそちらに靡いてしまうものです。そのため公孫瓚に味方する名士という存在自体が稀有だったと言えるでしょう。

 

 

たしか常山(ジョウザン)の離反を心配していたことが趙雲(チョウウン)伝で軽く書かれていましたが、名士に対する疑念や不信感が、すでに爆発寸前だったのかもしれませんね。

 

 

 

とはいえ、自分が嫌いだった名士は、当時の人材発掘の柱ともいえる存在。教養、人脈、人望を兼ね備えていた彼らを利用するでもなく排除していったのは、その程度の器だったという事の証左でしょう。

 

 

実際、易京に籠ってからの公孫瓚は、見るに堪えないほど疑心暗鬼に取り付かれていたようです。

 

 

『英雄記』の記述によると、自分の女以外を自らの居城に入れなかったり、危地に陥った味方を「助けたらどいつもこいつも甘えはじめるだろ!」と言って見殺しにしたり……最期にはもはや誰も信用できなくなっていたようですね。

 

 

天下を狙える器でなかった……というのは間違いありませんが、だからこそ何とも言えない哀愁がありますね……

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