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【公孫瓚伝2】イケメンVS名族

 

 

 

 

名族……潰すしかあるまい

 

 

 

袁紹との衝突の始まりは、彼と対立していた袁術の元へ派遣した公孫越の戦死でした。公孫続は袁紹派の面々との戦いの中、矢を浴びて壮絶な最期を迎えたのです。

 

 

これに対し怒りをあらわにした公孫瓚は、袁紹領に向けて進軍を開始。対する袁紹は離間工作か適当な和睦政策か、公孫瓚と一族の公孫範(コウソンハン)太守に任命したりもしましたが、公孫範も任地の兵を引き連れて公孫瓚に味方するようになったのです。

 

 

 

初平2年(191)、公孫瓚は軍備増強のため大軍でたむろしていた黄巾賊を討伐。圧倒的な数の軍勢を蹴散らして捕虜と軍需物資を強奪し、その軍はさらに精強で数も増していきました。

 

 

そしてついに、袁紹軍を界橋(カイキョウ)の地で捕捉。公孫瓚軍が圧倒的有利という中で袁紹軍と激突しました。。

 

しかし、この戦いはまさかの敗北。袁紹軍には麹義(キクギ)という騎兵との戦いに優れた指揮官がおり、麹義にまんまとやられる形で、公孫瓚の精鋭騎馬隊は打ち破られてしまったのです。

 

 

袁紹に打ち破られた公孫瓚は、そのまま公孫範の任地となっていた渤海(ボッカイ)に撤退。

 

そのまま袁紹軍とは一進一退の膠着状態になってしまい、2年余りの間袁紹軍としのぎを削りましたが、最後には公孫瓚の敗北は決定的に。やむなく薊まで引き下がることになったのです。

 

 

公孫瓚が敗走した先の薊。近隣にはお互い潰し合う仲の劉虞が居を構えていましたが、公孫瓚にそんなことを気にする余裕はありません。偶然かあてこすりか、劉虞の居城のすぐ近くに小さな城を建造し、そこを対袁紹の当面の本陣としたのです。

 

本拠が隣接した両者は、再び争いの気風が過熱。両者の決着は間近へと迫っていたのです。

 

 

 

 

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劉虞を殺せば……

 

 

 

公孫瓚の熱烈な嫌がらせ唐突過ぎる本拠建造に、劉虞はいよいよ危機感を大いに募らせます。

 

 

「よもや、我々に攻撃を仕掛ける気か」

 

 

この考えが本音か攻撃の建前かはわかりませんが……かねてより公孫瓚を危険視していた劉虞は、いよいよ公孫瓚に耐え切れず配下の諫言を聞かずに近隣の諸都市や異民族を糾合。公孫瓚打倒の軍を設立。ついに両者は決裂し、公孫瓚の軍勢に向けて劉虞の軍が攻め寄せたのです。

 

 

物量の上では圧倒的に劣勢の公孫瓚。しかしその指揮能力や軍の精強さは段違いで、劉虞軍の指揮系統の脆さもあって公孫瓚は圧勝します。そしてついには劉虞軍の本拠地をも奪取し、因縁の宿敵・劉虞を生け捕りにすることに成功しました。

 

 

 

その時、折しも都では董卓が死亡し、混乱を機に諸将が独立するのを警戒した朝廷から使者が贈られ、公孫瓚は前将軍(ゼンショウグン)に昇進。易侯(エキコウ)として自身の本拠地周辺の領有権を認められたのです。

 

公孫瓚はこの使者の来訪を宿敵排除の好機と見て、劉虞が皇帝として漢王朝に弓引こうとしていると告訴。処刑するように使者に迫りました。

 

 

公孫瓚の強迫に屈した朝廷の使者は彼の言い分を認め、劉虞を斬首し反逆者に認定。それに組した者も多数処刑し、この因縁(というか一方的なやっかみ)に決着をつけたのでした。

 

 

『典略』では、劉虞を処刑した際の細かな逸話が書かれています。

 

 

劉虞を捕らえた公孫瓚でしたが、ただ殺すだけでは天下の人々が納得しません。劉虞はそれだけの名声を得ていたのです。

 

そこで、公孫瓚は劉虞に対して、こんな命令をしたのです。

 

「皇帝を名乗るような奴なら、天気もお前の意思に応えるはずだ。さあ、さっさと雨でも降らせてみろ!」

 

しかし、公孫瓚が劉虞を捕らえたのは、日照りの続く夏真っ盛り。当然雨など降るはずもなく、ついに劉虞の処刑は執り行われたのでした。

 

 

 

こうしてもっとも目障りな存在を消し去った公孫瓚でしたが、殺した劉虞を慕う者は多く……彼を処刑したことで多くの敵を作ってしまったのです。

 

劉虞配下の人物らの中には脱出に成功した将兵らも多くおり、彼らは公孫瓚への復讐を決意。異民族相手に独自に融和政策を取っていた閻柔(エンジュウ)という人物を中心に、漢民族や異民族を混合した反公孫瓚連合を結成しました。

 

この連合に加わる形で袁紹までもが公孫瓚討伐の軍勢を進発。公孫瓚包囲網に参加し、界橋での立役者である麹義や密かに軟禁していた劉虞の息子である劉和に軍勢を率いさせ、公孫瓚の軍勢を各地で撃破。

 

一人を殺したにしてもあまりに多すぎる敵軍に、公孫瓚は連戦連敗。敗戦を重ねていき、ついに最後の砦である易京(エキキョウ)に閉じ込められてしまったのです。

 

 

 

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易京に散る

 

 

 

さて、追いつめられたとはいえ、易京の守りはまさに金城鉄壁。何重もの塹壕に巨大な土塁と物見櫓。それらは攻めるものすべてを追い返す名城として易京が褒め称えられる所以でした。

 

また、公孫瓚が鎮座する中央の土山はひときわ高く積み上げられ、食料も豊富に備蓄されているため、公孫瓚の精神的にも最も心許せる場だったのです。

 

「兵法でタ御法度される百もの拠点の攻略。この易京はその百の比でない数の拠点を有しておる。この豊富な食料を食いつくす前に、天下の趨勢を知ることができるだろうよ」

 

 

公孫瓚の考え通り、袁紹軍はこの難攻不落の拠点を攻略できずに撤退。何年もの間易京に軍勢を派遣し続けましたが、城を落とせる様子がありませんでした。

 

 

『英雄記』によれば、自身のいる場所には側室たち以外の誰も入る事が出来ず、当然側近らも進入禁止。公文書は縄に吊るしてぶら下げる形で発表したとか。

 

余裕ぶってはいたものの、内面ではもはや余裕が無かったことの表れか……。

 

 

元々「名士や力のある奴はすぐ裏切りそうだからヤダ」なんて言っていた公孫瓚ですが、ここにきてとうとう周囲のすべてが敵に見えてしまったようです。

 

 

 

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本拠の易京で守りに徹し麹義らを撃退した公孫瓚でしたが、業を煮やした袁紹が自ら本隊を率いて易京攻略に着手。両軍の激突は最終局面を迎えました。

 

大将自らが打って出てきたことを知った公孫瓚は、袁紹と敵対する黒山賊(コクザンゾク)に救援を要請。自らもその援軍に合流して袁紹の背後を突くべく、騎兵の出撃準備を開始したのです。

 

しかし、ここで参謀である関靖(カンセイ)が「今主君が出れば城が危険です」と慎重策を述べたため、作戦は中断。

 

 

結局次善の策として、城の外にいた一族の公孫続(コウソンショク)に「援軍が来たらのろしを上げるように。それを合図にこちらも打って出る」という旨の書状をしたためて使者を出すことになりました。

 

しかし厳重な包囲を縫っての脱出は難しく、使者は公孫続の元にたどり着く前に捕縛されてしまいます。

 

 

 

こうして書状から敵軍の作戦を知った袁紹は、約束の期日になるとのろしを上げて勘違いした公孫瓚を誘い出すという誘引作戦を実行。

 

まんまとこれに引っかかた公孫瓚は敗北により痛手を負わされます。

 

 

再び公孫瓚は易京に籠るも、すでに意気消沈した公孫瓚軍では満足な抵抗はできず、袁紹に必勝の策を実行する機会を与えてしまったのです。

 

その作戦は、地下道を掘り進んで土塁の砦ごと壊していくモグラ作戦。この作戦によって易京も陥落寸前に追いやられ、公孫瓚はここで抵抗をあきらめて妻子とともに自害する道を選んだのでした。

 

 

 

『英雄記』では、わりと外道な公孫瓚とその行動のせいで敗北した旨が書かれています。

 

というのも、袁紹が反撃に移って易京の城砦を破壊して回っていた時。公孫瓚の下にも陥落寸前の城砦から救援要請が多く寄せられていましたが、なんと公孫瓚はこれを拒否。

 

「一人を救援したら、皆援軍を期待して怠けてしまうではないか。それでは勝てるものも勝てん!」

 

結局公孫瓚は援軍を送ろうともせず、そのせいもあって袁紹軍の快進撃を止められる者はいなかったのです。

 

 

何というか、もはや追いつめられて疑心暗鬼もここまで来たかといった感じですね。

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