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【董卓伝2】狂人の専横

 

 

 

 

董卓の専横

 

 

さて、実質的に天下人のような形になった董卓は、さっそく自らの望む朝廷を打ち立てるべく、名士たちを招集。意外にも初めから好き勝手をしようと動いていたわけではなく、この時は当時のしきたりや暗黙の了解に従って、家格の高い人材を多く高級官僚のポストにすげて政治体制を整えようとしていました。

 

 

が、その一方でやはりとんでもないことをやらかしています。

 

 

まず、司空(シクウ:法務の最高長官)を「長い間日照りが続いたのはこいつの不徳のせいだ」として首に追い込み、自らがそのポストに着任。

 

その後時を置かずして太尉(タイイ:軍事最高長官)になり、多くの軍事権限と一部近衛兵の動員権限を得ます。

 

 

さらには当時皇帝の座にいた少帝を廃位に追い込み、そのまま新皇帝として献帝を勝手に擁立。さらに、王位に降格した少帝をその母である何皇后ともども殺害してしまったのです。

 

その後、自らは相国(ショウコク:宰相)になり、郿侯(ビコウ)に爵位も上がり、終生の本拠地もゲット。また、朝廷内でも多くの特権を得る等、専横の姿勢を明らかにし始めたのです。

 

 

本伝にはこれの他に、民たちが祭りで集まっているのを襲撃して財貨と女をさらっただとか、宮廷の女官を暴行して回ったなどと悪逆非道の様が記述されていますが……この辺りは後世「外道の暴君」としてキャラ付けされた人物のレッテル貼りのテンプレであり、信憑性は微妙なところ。

 

とはいえ、当時の皇帝は神にも等しい存在にして、絶対的な崇拝の対象。それを挿げ替えただけでも、当時の価値観では大罪と言えるでしょう。仮に上記の逸話が嘘だったとしても、書かれてしまうのはある意味納得……

 

 

 

こういったこともあり、一気に周囲の反感を買った董卓。彼は名士層の推薦もあって多くの人材を地方の長官に任命しましたが、そのほぼすべてが自身に反逆。

 

その少し前に発足していた反董卓連合軍に彼らも加わったことにより、世評は一気に反董卓へと染まってしまったのです。

 

 

ちなみに董卓は、裏切った面々を推挙した名士らをその場で斬殺、それから反逆者の血族や、皇族の王までもを手にかける等粛清を繰り返すようになりました。疑心暗鬼に陥っていたとの記述もあり、この頃から精神的に追い詰められつつあったのかもしれません。

 

 

 

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こうなってしまっては、洛陽などいらん!

 

 

 

 

董卓連合軍は実のところやる気が薄く、諸侯は董卓討伐後に誰が覇権を握るかで水面下の争いを繰り広げていたといわれています。

 

そのため、やる気があると見られたのは、孫堅の軍勢と曹操を中心とした一派のみ。他の軍はあくまで陣にとどまり、董卓との戦いを押し付け合うような動きを見せていました。

 

 

 

が、董卓はあくまで漢から見れば辺境の田舎武者。ただでさえ支持者も直属兵も少ない上、これまでの暴政で周囲の恨みを買っている有り様で、実のところ勝利は何度かえられたもののかなりの劣勢に立たされていました。

 

 

そんなある時、董卓は一大決心をします。

 

 

「都・洛陽を放棄する」

 

 

この前代未聞の「首都放棄」を決定した董卓は、さっそく都周辺の墓陵を暴いて金品を強奪。さらには宮殿に火をかけ、民を連れて自身の本拠地である郿(ビ)が近い長安へと逃げ去ってしまったのです。

 

 

物資も人もいなくなり焼け焦げた洛陽を見た反董卓連合軍は、目標である董卓の離脱という結末に面喰い、目標を失ってそのまま瓦解していったのです。

 

 

 

焦土作戦としては大成功を収めた董卓ですが、権力の証である都を焼くという事は後世に残る更なる悪行の追加、さらには自身の天下人からの失墜を意味し、ここで董卓は天下人からリタイアし、一群雄に成り下がったと言えるでしょう。

 

 

 

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本拠地こそ最強!

 

 

 

群雄に成り下がったとはいえ、まだまだ漢王朝の中心機能は董卓の掌中。自らは太師(タイシ:帝の師)を自称し、弟の董旻(トウビン)をはじめ一族で高官で固める等、専横の気をさらに高めていきました。

 

 

さらには郿に城郭を建築。大都市にして現首都の長安と同等の高さの城壁と30年分という大量の穀物貯蔵を擁する、難攻不落の大城郭に仕上がったとされています。

 

 

ちなみに本伝では、投降者数百人を並べ、舌を切ったり手足や目玉をもいだり大鍋で煮たりといつも通りのえげつないパフォーマンスを行っています。

 

疑心暗鬼に駆られて暴走したとすれば、もしかしたら可能性もあったんじゃ……?

 

 

 

『山陽公載記』では格の差を見せつけられた皇甫嵩との確執も書かれており、皇甫嵩に対して散々粘着し続け、最後には権力で屈服させて和解したという逸話もあります。

 

 

さらには疑心暗鬼からか個人的な恨みからか、以前上司であった張温(チョウオン)を「敵である袁術と内通した」として処刑するなど、過酷な政治と多くの密告を招いた政権の様子が史書には綴られています。

 

とはいえ民政にはなかなかに力を入れていたらしく、財政立て直しのために五銖銭(ゴシュセン)を廃止して粗悪な少銭(ショウセン)を流通させたりもしましたが……まあ、元々董卓に政治センスはなかったのでしょう。結果としてインフレスパイラルを引き起こし、財政と民の生活はさらに困窮したそうな。

 

 

 

そんなこんなで強引な手法により天下人となり専横を極めた董卓に対し、いよいよ内部でも暗殺が計画されるようになります。

 

 

そして数々立てられた董卓暗殺計画のひとつには、自身が信用していた王允(オウイン)や士孫瑞(シソンズイ)、また、以前手なずけて寝返らせた呂布が共謀して行ったものもあったのでした。

 

 

 

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暴政の果て

 

 

 

ある時、帝は病を得ていましたが、無事に快癒したとのことで群臣が祝いに集合。

 

董卓もこれに参加すべく帝の元へと向かいましたが、なんと到着しても門が開かないではありませんか。

 

 

入門を阻まれ、事の次第を察した董卓。さっそく、頼りになる用心棒の呂布を探しますが、呂布もすっかり暗殺者側の味方。帝からの勅使を持った呂布にその場で董卓は殺され、父母、妻子、兄弟姉妹に至るまで三族皆殺しにされてしまったのです。

 

さらにはこの場で董卓に慌てて駆け寄った配下を含め、董卓派の面々は皆殺し。民衆は祝賀し、後に董卓を暗殺した王允らによって「涼州の人間は皆殺し」などと滅茶苦茶な布告まで出されたとか何とか。

 

 

董卓の一派として亡くなった者の中には、超一流ともいえる名士の蔡邕(サイヨウ)等もおり、この事から董卓には完全に敵対者しかいなかったわけではないようですが……やはり次代の中で負けていった暴君の最期は寂しいものがあります。

 

 

 

『英雄記』では、この後90歳にもなる董卓の母まで殺されたとか何とか。
また、董卓は肥満体型で、その死体のへそにろうそくを立てて火をつけたところ、何日も燃え続けたといわれています。

 

さらには後々董卓の旧臣が遺灰を集めて葬ったのですが、その後貯蔵庫を見ると山のような宝が積まれていたとも。

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