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【董卓伝3】本音と野心に生きた人柄

 

 

 

 

 

西域の顔役

 

 

 

青年期の董卓は、男伊達気取りの遊侠の徒だったそうで、この時に西方の異民族である羌(キョウ)族の拠点をあちこち放浪して回り、彼らの族長と対談。この頃から、周囲とのコネを積極的に得ようとしていたことが伺えます。

 

董卓の生まれは辺境の西域で漢王朝の影響力が弱く、特に異民族が幅を利かせていた場所でもあったのです。

 

そのため、董卓は中央でなく、あえて国外の部族の助けを得ようと動いていたわけですね。

 

 

 

また一部の族長たちが董卓の元へとあいさつに訪れると、董卓は牧畜用の牛をその場で殺し、その肉をふるまって宴会したという話まで列伝に載っており、いかに董卓が羌族とのつながりを大事にしていたかがわかります。

 

ちなみに、そんな董卓の対応に感動した羌族の族長たちは、部族の元へ帰った後に家畜をそれぞれの部族で合計1000ほど取り揃えて董卓に送り届けたそうな。

 

 

 

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さて、こうして心強いコネを手に入れた董卓は、いよいよ禁軍の一人として召し出され、野心成就のための第一歩を踏み出します。

 

 

董卓は元々武勇に優れていたことから、あっという間に軍司馬(グンシバ:司馬は軍事長官から派生し、隊長の意味を持つ)に任命され、張渙(チョウカン)という人物の賊徒討伐軍に参加し、ここでも戦功を立てて郎中(ロウチュウ:皇帝の護衛官の一つ)にまでなったのです。

 

 

その後も県令や都尉を歴任し転任のたびに昇進しますが、突然免職。何をやらかした

 

 

その後召し出されて幷州(ヘイシュウ)の長官職である州刺史、河東(カトウ)太守となり、讒言で罷免された前任の盧植(ロショク)に代わって中郎将(チュウロウショウ:禁軍指揮官)として黄巾軍討伐の総大将になりますが、敗北して罪に問われ、またしても罷免。

 

 

この時の董卓は振るわなかったのかあるいは地元以外に興味がないのか……ともあれ、この浮き沈みの連続はなんだか不気味な感じがしますね。

 

 

 

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董卓の機転

 

 

 

さて、これだけを見ると戦争にも負けていますし、なんだか董卓が無能な人間に思えてきますよね。しかし、本当は機転の利く人物で、もしかしたらここまでの失態はあからさまに手を抜いていたのが原因なのではなかろうかと思える部分も複数存在します。

 

 

 

それが、地元近くで韓遂(カンスイ)らが反乱を起こした時です。

 

この時、どういうわけか中郎将に返り咲いた董卓は諸軍と連携して反乱討伐に当たったのですが、韓遂もまた羌族とは親しい間柄。なんと董卓軍は、反乱に参加した羌族の大軍に包囲され、さらには包囲が続く中で食料が欠乏し始める事態に陥ったのです。

 

 

この窮地の中、董卓軍は魚を捕るフリをして決死の脱出作戦を実行。魚を捕りに行く傍らで川に堰を作り上げ、流れをせき止めて水を一ヶ所にためていき、完全に水がせき止められたある時、董卓はなんとせき止められて干上がった川の中を渡ってまんまと包囲を脱することに成功したのです。

 

しかも帰り際には堰を切って川の水を元通りにし、気付いて追ってくる敵軍の追撃を遮断する等、逃げた後の敵の動きも考慮に入れた鮮やかな撤退劇でした。

 

 

結局この反乱鎮圧は失敗に終わり、討伐軍は多大な打撃を受けることになったのですが、なんと董卓軍だけは撤退戦の鮮やかさもあってほぼ無傷。そのまま対韓遂の前線基地である扶風(フフウ)に駐屯し、前将軍(ゼンショウグン)に昇進。

 

さらには幷州牧として長官職にも復職し、斄郷侯(タイキョウコウ)として諸侯にも封ぜられたのです。

 

 

 

 

話は前後しますが、三国志の「呉書」では、中央に召し寄せられる前、涼州にいた時に地方役人として董卓が活躍した記述があります。

 

役人となった董卓は、盗賊の取り締まりを担当していましたが、ある時異民族が一斉になだれ込んで略奪を働いたことがありました。それを聞いた長官は董卓に騎兵を率いさせて戦わせたところ、なんと董卓は大勝し、四桁というすさまじい数の敵を討ち取ったそうな。

 

これによって中央に目をつけられ、并州刺史の段熲(ダンケイ)からの推挙を得て、さらには三公のひとつである司徒を務めていた袁隗(エンカイ)に属官として召し寄せられたのです。

 

 

なお、「英雄記」にも「羌族と戦って勝つこと百回以上」ともあり、地元が絡んだ時の董卓の強さが伺えます。

 

 

 

しかし自分と無関係のところではやっぱり弱くなってしまうのが董卓

 

『後漢書』では、中平5年(188)に発生した反乱討伐に、皇甫嵩(コウホスウ)と共に挑んでいますが、董卓は皇甫嵩と真逆の意見ばかりを提案。結局皇甫嵩の言うとおりに動いたところ彼の読みは見事的中し、「董卓は言う事が的を射ていない」とまで言われて信用がガタ落ちしています。

 

 

また、『霊帝紀』ではその後再三にわたり、「皇甫嵩に兵を預けて戻ってこい」と朝廷に言われますが、これを拒否して独自勢力の形成に腐心するようになります。

 

『後漢書』の側にも董卓伝が設けられていますが、そちらでは河東で勢力を蓄えていたとか何とか

 

 

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天下への怒涛の邁進

 

 

 

さて、この頃から大将軍の何進(カシン)と実権を握っていた宦官・十常侍(ジュウジョウジ)らによる政治的対立は完全に表面化し始め、今やお互い殺すか殺されるかという話にまでなっていました。

 

そんな折、何進は十常侍殲滅のため董卓を中央へ呼び寄せることを決意。

 

 

「ここで名を挙げれば、いよいよ天下が近くなる」

 

 

そう考えた董卓は、満を持して何進の援軍として中央へ進発します。

 

が、その途上、何進が逆に暗殺されたという知らせを受け、董卓は彼による作戦が失敗したことを知ります。さらには、何進側の重要人物である袁紹(エンショウ)、袁術(エンジュツ)らがその報復に宮中の宦官を殺して回っており、宮廷は大混乱に陥っているようではありませんか。

 

 

 

「しめた」と思った……かどうかは定かではありませんが、こういったときの董卓は実に素早い。皇帝を連れて逃走中の十常侍らを攻撃して追い払い、董卓軍で帝を保護し、堂々と入洛。

 

帝を保護したという大義名分を以って一気に宮中での影響力を高め、辺境の田舎領主から一転して天下に通じるほどの勇名を馳せます。

 

 

また、なぜか兵士に何進の弟が暗殺されたため董卓はその軍を吸収し、さらには執金吾(シッキンゴ:中央付近の警察署長)の丁原(テイゲン)を、その配下の呂布(リョフ)をそそのかせて殺害させ、彼の軍をも支配下に加えたのです。

 

 

こうして膨れ上がった董卓軍は、気付けば都の軍事権を独占。もはや中央の軍事力では董卓に逆らえる者はおらず、あっという間に天下を手中に収めてしまったのです。

 

 

『九州春秋』には、この時の董卓軍はかなり数が少なかったと記されています。

 

その数、わずか三千。

 

 

これでは諸将にナメられて天下をとれないと考えた董卓は、なんと軍勢の水増しを実行。

 

 

4,5日おきに夜中になったら兵士を一度都の外に出し、白昼に再び入城させるという方法で、あたかも「董卓軍の増援が到着した」と周囲に錯覚させたとか。

 

このため董卓軍の数は計り知れないと、周囲は噂し畏怖したといわれています。

 

 

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