このエントリーをはてなブックマークに追加

 

 

 

 

 

呉の暗雲、そして……

 

 

 

 

呉の建国によって沸き立つ孫権領内でしたが、その絶頂期も長くはありませんでした。

 

相次ぐ重臣や親族の死により国主・孫権の判断に大きな狂いが生じ始め、やがて国内の安定をも脅かすようになるのです。

 

 

その序章ともいえるのが、呂壱事件。

 

 

孫権は呂壱(リョイツ)という人物を任用し、人事監査の重役に置いたのです。

 

 

呂壱は重箱の隅をつつかのような徹底弾圧を行って、気に食わない相手や政敵を次々と弾圧。多くの家臣が罷免や降格という処分を受け、政治体制に大穴をあけてしまいます。

 

この有り様を見てある者は孫権に呂壱の悪行を上訴し、特に怒りを覚えた者はわざわざ呂壱を殺しに行こうとしたとまであります。

 

 

歩隲もこの時、孫権に対して呂壱の悪行を摘発。顧雍(コヨウ)、陸遜諸葛瑾、潘濬(ハンシュン)らの名を挙げ、彼らを中心であるとして重く用いるようにとも諫言しています。

 

 

 

とまあこのような動きによって孫権は呂壱を処刑、ようやく政治は正常化の兆しを見せますが……孫権自身が明けてしまった穴は大きく、直後に孫権が政治的意見を求めた際には誰もがハッキリ意見を言うのをためらうようになりました。

 

歩隲もこの時意見を求められましたが、「私は軍人だから政治家に回してください」と逃げるような返答をしています。

 

 

呂壱事件により、大きな亀裂が入ってしまった主従の絆。これは後に、更なる問題を引き起こすことにもつながるのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

二宮の変と丞相就任

 

 

 

呂壱事件の解決により、呉は表面上は上手く穴もふさがった形になりましたが……心身ともに損耗しきった孫権に、さらなる試練が降りかかってくるのです。

 

次に呉を襲ったのは、後継者問題。皇太子の死後嫡男不在となった呉では、後継ぎをめぐって政争が勃発。

 

 

元々三男の孫和(ソンカ)で半ば後継ぎが決定していたのですが、そこに四男の孫覇(ソンハ)が周囲に推されて名乗りを上げたのです。

 

結果、揚州土着の名士を主流に構成された孫和派と、主に疎開してきた外様名士で構成された孫覇派で主導権争いに発展したのです。

 

 

 

歩隲はこの時、外様名士の一人として孫覇派に所属。陸遜らと対立関係になり、激しい潰し合いの不毛な讒言合戦に発展し、多くの重臣がこのあおりを受けることになったのです。

 

そんな中、政争を優位に進めていたのは孫覇派。彼らは土着名士やそれに組する孫和派重臣たちを次々と左遷に追いやり、ついにはそのトップに立つ陸遜をも排除に成功。

 

そのまま陸遜が病死すると、ついに歩隲は丞相に就任。孫覇派の勝利という形で一応の決着を収めたのです。

 

 

こうして呉の最高位に上り詰めた歩隲は、西方に20年ほど滞在していたこともあり、蜀でも畏敬の目で見られるほどの多大な名声を得たとされています。

 

しかし時は残酷な物で、丞相となった翌年の赤烏10年に病没。

 

 

さらには孫覇派のリーダー格であった全琮(ゼンソウ)も相次いで亡くなったため孫覇派は壊滅。ついには土着名士らが力を盛り返し、後年、その孫である歩濬(ホシュン)を除く一族郎党が処刑されるという憂き目にあってしまったのでした。

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

沈着な性格、規範となる態度

 

 

 

三国志の生みの親である陳寿は、彼の事を以下のように評しています。

 

 

人を受け入れる器量と規範となる行動により、有能であるとみなされた。

 

 

また、徐州出身の外様名士の代表格としても扱われており、当時の名声の高さが伺えます。

 

 

 

その性格は冷静沈着で鷹揚。器量が大きかったため、ポーカーフェイスなよくわからない人でありながら、内外をしっかりとまとめ上げる統率力を持っていたのです。

 

贅沢にも特に興味がないようで、丞相になってからも生活は質素倹約。書物を手放さず一族子弟にも勉学を教え、住み家も衣類もその辺の学者と変わらない物だったそうな。

 

 

『呉書』には、器量と冷静さの他に、多芸さについても触れています。

 

といっても逸話は無く、「哲学や諸芸に、右に出る物がいないほど広く深く精通していた」と書かれているくらいですが。

 

 

 

とにかく、政争のどさくさではあるものの、一国の宰相になる位の人物だったのは間違いない……かもしれません。

 

 

しかし、どうにも敵が多かったような記述も多く……もしかしたら、周囲からはあまりよく思われていなかったのかもしれませんね。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

土着名士陣の敵?

 

 

 

自身も優れた才があるとともに、多くの忠臣を名指しで主君らに紹介したりと、歩隲の行動だけを見るととても敵を作るようなものには見えません。

 

しかし実際はそうでもなかったようで、特に格式の高い名士らからは印象があまり良くなかった可能性があります。

 

 

例えば、呉の股肱の臣代表格といえる、同じ徐州出身の張昭(チョウショウ)。まあ歩隲だから不快に思ったかどうかはわかりませんが……彼は息子が歩隲の推薦で軍人になった時、明らかに不快感を示しています。

 

 

また、歩隲が軍備強化を願い出た時には、潘濬は彼の名声と勢いを警戒して孫権に却下を願い出ていたのです。

 

 

極めつけは、彼の妻の態度について。歩隲自身は丞相になっても禁欲的な生活をつづけたのですが……やはり凡人は転がっている金と名誉を無視できないもの。
彼の妻や妾たちは夫と違ってきらびやかな衣類を身に着けて着飾っていたらしく、それが理由で歩隲への反発も少なくなかったそうな。

 

 

 

このように意外と敵が多いかもしれない歩隲。もしかしたら、はじめから気の強い土着の名士を排除しようと考えていたのかもしれませんが……所詮は陰謀論の枠を出ない推測です。

 

彼はいったい、そのポーカーフェイスの裏で何を思い、何を考えていたのでしょうか?

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連ページ

【歩隲伝1】政治家風軍人
幕僚や文官のイメージが非常に強い人物ですが、実際軍人なんやで、この人

ホーム サイトマップ
お問い合わせ