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苦学者歩隲の在り方

 

 

 

 

歩隲の生まれた徐州(ジョシュウ)は、その当時は大変な激戦区。数多の群雄が攻め寄せ、奪い合い、結果として多大な戦禍にさらされていたのです。

 

そんな状況ゆえか、多くの名士らは南へと流れて疎開。平穏な天地を求めて故郷を後にする人が続出したのでした。

 

 

歩隲も、荒れ果てた故郷を捨てて南へと逃れたひとりで、たまたま同い年で仲の良かった衛旌(エイセイ)と共に南の地へと逃避。しかし他の名士と違って人脈も名声も持ち合わせていなかったため、貧乏生活を余儀なくされていました。

 

その生活たるや、作物として瓜を育てて売り出し、昼間は底辺職の肉体労働に精を出し、夜になってようやく残り少ない体力と時間を勉学に割けたと言われています。

 

 

そんなある日、2人は東の端にある会稽(カイケイ)郡に移住。その地で幅を利かせていた焦征羌(ショウセイキョウ)なる人物に挨拶伺いに行き、育てた瓜を献上してご機嫌を取ろうと考えたのです。

 

……が、焦征羌は2人の来客を知りながらもあえて無視して昼寝を開始。

 

そして長時間待たせた後に、今度は直射日光の入り込む場に敷物を敷いてそこに座らせ、自分は豪勢な料理を食べながら2人には質素な料理しか振舞わず……とにかくとことんまで見下した応対を徹底したのです。

 

 

衛旌はこのぞんざいな扱いに耐えがたい屈辱と怒りを覚えましたが、一方の歩隲はケロリとした顔でバカにしたような態度を見送り、そのまま何事もなしに帰らされたのです。

 

 

平気な顔をした歩隲に対して衛旌は「あんな馬鹿にした態度を何故平気で耐えられる?」と問い詰めましたが、歩隲は別段普通の顔をしてこのように答えたのです。

 

 

「今の俺たちは身分も金もない、言わば何も怖いところのないモブキャラだ。そんな奴らがビビッてご機嫌取りの挨拶に来たとあっては、あんなデカい態度を取られるのも当然だろう」

 

 

焦征羌は荒くれ者であり、その部下たちは好き勝手振舞う血の気の多い輩。

 

だからこそ、歩隲たちはわざわざご機嫌取りに来たのです。その目的を忘れてプライドだけで行動しても、良い事は何もない。歩隲はその事実をしっかりと認識し、目的を忘れず行動していたのです。

 

 

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辺境・交州へ

 

 

 

後に歩隲は、孫権(ソンケン)によって呼び寄せられ、主記、後に海塩(カイエン)県の県長に就任。さらに孫権が位を上げると、その配下である歩隲も東曹掾(トウソウエン:この場合孫権直属の事務・人事担当者)として中央に再び勤務することに。

 

そして建安15年(210)、歩隲は鄱陽(ハヨウ)郡の太守を経て、その年のうちに今度は交州(コウシュウ)刺史(シシ:州の長官)として、千人の武装兵とともに不穏な雰囲気の漂う辺境の地へと向かったのです。

 

 

さて、この時の交州はというと、士燮(シショウ)なる人物と、劉表(リュウヒョウ)の差し金で太守として赴任してきた呉巨(ゴキョ)という人物が勢力を張っていました。

 

歩隲が来ることで、この2人は一応孫権配下に加わる動きを見せましたが……やはり辺境で勢力を持っているだけあって独立心が強く、なかなか思うように統治が進みません。

 

特に呉巨に関しては動きはかなり不穏であり、場合によっては歩隲を追い出すか殺してしまう可能性すらあったのです。

 

そんな空気を感じ取った歩隲は、あえて呉巨に対して親密に接し、油断を誘発。そしてある時、会見の場に呼び寄せてそのまま斬り捨ててしまったのです。

 

 

歩隲の強固な姿勢を見た交州全土は震え上がり、実質的に交州支配者であった士燮も孫権に正式に帰服。この時からシルクロードを通じた交易路を開放し、呉には珍品が届くようになったと言われています。

 

 

さらにこの威名は隣の益州南部にまで届いており、雍闓らは孫権軍に帰順して当時の主であった劉備(リュウビ)に反旗を翻したのです。

 

 

この功績を以って、歩隲は将軍職を賜り、さらに広信侯(コウシンコウ)の爵位を与えられました。

 

 

 

 

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歩隲帰還

 

 

 

延康元年(220)、歩隲は呂岱(リョタイ)と交代で安定した交州を去ることになり、荊州南部の長沙(チョウサ)に移りました。この時、歩隲を慕ってついてくる者が1万にも上ったとされます。

 

また、当時の荊州は劉備との戦争状態により、そこに居つく異民族も劉備の侵攻を噂に聞いて不穏な空気を醸し出していたのです。

 

 

そこで歩隲は、荊州南部の反乱鎮圧の任を受け、反抗勢力を掃討していきます。後にいう夷陵の戦いの裏で歩隲は反乱の芽を摘んでいき、後に孫権軍が勝利した後もなお反攻を続ける勢力も残らず平定したのです。

 

 

そして黄武2年(223)、歩隲は右将軍(ウショウグン)、左護軍(サゴグン)に就任。同5年(226)には仮節(カセツ:戦犯者の処罰権)が与えられ、漚口(オウコウ)の地へしばらく駐屯することに。

 

 

また、孫権がついに帝に即位すると、歩隲も驃騎将軍(ヒョウキショウグン)・冀州(キシュウ)牧に任命され、陸遜の後を継ぐ形で都督として西の抑えを担当することになったのです。

 

しかしそう長くないうちに、魏を倒した後の領土配分で冀州は蜀の領地と決まり、冀州牧は解任されています。

 

 

また、皇太子である孫登(ソントウ)から「どの地にどんな賢才がいるのかを私はよく知らない。荊州の人材を教えてくれないだろうか」と訊かれると、歩隲はすぐさま荊州で功を上げた人材の名前を箇条書きで指名。

 

それぞれの人物の平時の行動と特徴を書き連ね、古典にある例を挙げて「英雄、賢才を使いこなすことに心を注いでいただければ天下万民の幸福です」と激励の言葉も書き加えて返信したのです。

 

 

この時名前が挙がったのは、諸葛瑾(ショカツキン)・陸遜・朱然(シュゼン)・程普(テイフ)・潘濬(ハンシュン)・裴玄(ハイゲン)・夏侯承(カコウショウ)・衛旌・李粛(リシュク)・周条(シュウジョウ)・石幹(セキカン)ら。正直、聞いたことのある名前とない名前が半々といったところでしょうか。

 

 

その中でひときわ光る名前が、程普。記述のある人物は彼を除いて全員存命中で、また手紙の目的や内容からしても、死んだ人間がノミネートされるのは若干の違和感があります。

 

……つまり、この時程普は生きていた?

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