賈逵


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【賈逵伝1】不屈と正義の暴走特急





天性不屈の将軍(予定)




賈逵は幼少の時、いつも自分の率いる部隊を編成するようなお遊びをしていました。

そのためか、あるいは部隊編成が優秀だったのか……そんな賈逵を見ていた祖父はある時、「こいつは将軍になるに違いない」と確信。数万字に及ぶ軍略兵法を教授し、彼の好きな軍事により深くかかわらせてやったのです。


『魏略』によると、彼は名家でありながら戦争孤児で、冬服もないくらいにわびしい若者時代を過ごしていました。

しかし妻の兄の元に泊まりに行ったときは、さすがに耐えきれず義兄の袴を着けて立ち去ったとか何とか。


そんな賈逵は成人すると、まずは郡の役人からスタート。県長の仕事を代行することになりました。

さて、こうして比較的平穏なスタートを切ったある日のこと……袁尚(エンショウ)配下の郭援(カクエン)なる人物が、異民族である匈奴(キョウド)と結んで賈逵のいる河東(カトウ)を攻撃。賈逵が守る県以外はすべて郭援に降ってしまったのです。


郭援は賈逵の城を攻撃。1度はなんとか撃退しましたが、郭援は今度は匈奴の王たちと連合。この猛攻により、ついに城も陥落寸前となってしまったのです。


もはやこれまでと見た町の長老たちは、賈逵の身柄の安全を条件としてついに郭援に降伏。彼にうわさを聞きつけられた賈逵は、その前に引っ立てられることになりました。

こうして郭援の前に連れてこられた賈逵は、「うちの将軍になれ」という郭援の誘いを受けましたが、これを拒否。

武器を突きつけて脅迫するも賈逵は一切びくともせず、郭援は賈逵を無理矢理地べたに組み伏せるも、逆に賈逵は「国家の高官が賊に土下座するなどあってたまるか!」と一喝。


最後には賈逵は郭援に斬られそうになりますが、長老たちはこれを聞くや否や「約束に背くとは何事か!」と郭援に猛抗議。賈逵の心意気に感服した郭援の側近たちも助命を求めたため、結局賈逵は命を永らえることができたのです。


本文によれば、この事件の前、包囲を受けつつあるときに、計略によって郭援の参謀を撹乱。その行軍を7日間遅らせたとあります。賈逵は知略にも秀でていたようですね。


また、『魏略』によると、彼は郭援に殺されそうになった時、急造の穴倉に投獄されて今にも危険な状態だったとか。

この時に賈逵の命を救ったのは郭援の参謀で、彼は別に賈逵と知り合いでもなかったのに、名前も伝えず彼を救助。

賈逵が彼の名前を知ったのはしばらく後のことで、その参謀は別の事件(曹操による侵攻かな?)で連座して処刑されてしまいました。賈逵は彼を助けようとしたものの何もできず、せめてもの思いで揉服に着替え、彼を弔ってやったのです。

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賈逵さん危機一髪




後に賈逵は茂才(モサイ::秀才とも。官吏への地方推挙枠)に取り立てられ、澠池(ベンチ)の県令に取り立てられました。

そしてある時、私用か公用かは知りませんが、張琰(チョウエン)なる人物に会いに行くことになったのでした。


……が、この張琰との会合に出かけたことが、賈逵を更なる危地に駆り立てることに繋がります。この時、袁紹(エンショウ)の甥である高幹(コウカン)が反逆。なんと張琰は、この時高幹に呼応しようと目論んでいたのです。

賈逵は張琰の元に行った後にこの情報を得ましたが、このまま急いで帰ったところで、ひっ捕らえられるのは目に見えています。


そこで賈逵は、一計を案じます。賈逵はあえて自分も曹操に裏切る気満々であるとアピールし、味方を装う事で張琰の計画をすべて聴取。さらに張琰から兵を借り受けて自分の城を補強します。

これにより、あとで気づいた張琰が攻撃を仕掛けても強固な城を盾に押し返すことができ、さらに張琰らの反乱が失敗に終わったら首謀者らを軒並み処刑することができたのでした。




「みんな賈逵になればいい」




張琰の反乱が終息した後、賈逵は自身の祖父の訃報を聞き、辞表を出して喪に服すため帰郷。

後に復職すると司徒(シト:民政大臣)の属官からそのまま首都近郊の軍事に携わり、馬超(バチョウ)征討の折に曹操によって弘農(コウノウ)に連れ出され、「交通の要衝となる」としてその地の太守を代行することになりました。

またこの時、曹操は側近に対し、「天下の二千石の大身どもが、みんな賈逵だったら超安心なんだけどな」と語ったとか何とか。


しかしその後、またしても賈逵に災厄が降りかかります。徴兵時に何かのトラブルがあったか、屯田都尉(トンデントイ:屯田責任者)が「賈逵の野郎が逃亡民をかくまったか」と勝手に邪推。賈逵に対して暴言を吐きまくったのです。

賈逵はこのパワハラに対しマジギレして、自分の職権範囲外である屯田都尉を逮捕。その不遜を罪であるとし、彼の脚をへし折ってそのまま免職を食らってしまったのです。

しかし、曹操は逆に賈逵のこの痛快さを気に入って自分のところの主簿(シュボ:庶務課長)に取り立てたのでした。


屯田都尉の暴言の理由は、今でいうところの「他部署の人間だから何をしても業務責任問われないし~」の精神ですね。派遣社員や無関係な部署の人間に異様にキツイ屯田都尉の不道徳にキレて、そのまま越権行為を行ったといったところでしょうか。


ちなみに『魏略』では、主簿になった際にも曹操の「緊急事態につき諫言禁止」のお触れを無視し、他の主簿たちと諫言を行い仲良く全員逮捕。

賈逵は「私が主導しました!」と告げるや否や牢獄まで走っていき、枷をつけるのをためらった獄卒に「お前まで疑われるようになるんだから、さっさとわしに枷をつけろ」と急かしたとか。

後に取り調べの結果、賈逵は無罪復職になったのですが……本当暴走すると止まらんな、この人は。



その後、賈逵は劉備(リュウビ)との決戦に随行。先行して偵察を行い、その折に数十人の軍法違反者が連行されているのを目撃します。軍事状態が切迫してるから戦力が欲しいと感じ、賈逵は重罪人一人を除き免除して曹操に気に入られていますね。

のちに賈逵は諌議大夫(カンギタイフ:帝の諌止役の一人)となり、夏侯尚(カコウショウ)と共に軍事計画を立てるようになります。


曹操が洛陽(ラクヨウ)で崩御した際には、その葬儀は賈逵が取り仕切りました。

またこの時、曹操の息子である曹彰(ソウショウ)が「魏王の印綬はどこだ?」と明らかにヤバい質問をしましたが、賈逵は対して「世継ぎが他にいらっしゃるのに、あなたがその話を持ち出すべきではない」と一蹴。曹操の棺を曹丕(ソウヒ)がいる鄴(ギョウ)に移送したのです。


『魏略』によれば、この時「曹操様の喪は伏せよう」という声が大多数でしたが、賈逵は「そんな小賢しい手を使っても後でバレる」と一蹴。

さらに曹操に死によって勝手に故郷に帰ろうとする青州兵に対しても、討伐すべきという意見を退けて「この機会だ。好きにさせて労わるのが良いだろう」と、各地で食料を支給してやるように伝達しました。


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真の刺史




曹丕曹操の後を継ぐと、首都圏でありながら治安の安定しない鄴の県令を任せ、その一月ほどの地に魏郡(ギグン)太守に昇進させました。しかし曹丕の遠征時には、再び彼の主簿兼軍祭酒(グンサイシュ:いわゆる軍師的役割)として彼の元に復帰。

渡しを通行するときに軍列が大きく乱れたのを見ると、列を乱した兵士を即座に斬り捨てて軍列を再び整えます。


こうして南下し譙(ショウ)まで来ると、賈逵は今度は豫洲(ヨシュウ)の監査官である刺史に就任。治安と規律の乱れを指摘し、大身の官吏が犯した違反をすべて摘発。ことごとくを免職するよう上奏し、曹丕に「真の刺史とはこのことだ」と大いに賞賛され、関内侯(カンダイコウ)に取り立てられました。


また、呉との国境付近ではことごとく守りを固めて呉軍の侵攻を遮断。内政面でも堤防やダムを造ることで治水を徹底し、広大な運河を建造した記録画のこっています。


そして、黄初年間(というか実際には222~226)に行われた曹丕の遠征にも随行。


黄初3年(222)の侵攻では敵水軍が風で流されたのもあって、賈逵が属する戦線では局地的ながら大勝を飾っています。

この功績によって、賈逵は陽里亭侯(ヨウリテイコウ)に昇格し、武官としても建威将軍(ケンイショウグン)に昇進。祖父の予言はここに的中したのです。


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