賈逵


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対孫権戦線

 

 

 

曹丕が亡くなると、今度は魏の国主は息子の曹叡(ソウエイ)にバトンタッチされます。曹叡の魏帝即位に際し、賈逵は領邑を二百戸増加。合わせて四百戸となりました。

 

 

また、孫権との戦いの際にお互いの侵攻ルートが限られていることに着目し、賈逵は駐屯地を要衝である潦口(リョウコウ)に移すことを提案して、曹叡を感嘆させています。

 

 

とまあ知略に関しては十二分だった賈逵ですが……その剛直な性格から敵が多く、軍中でも結構煙たがられていたようです。

 

その賈逵を嫌っていた人物で、筆頭格だったのが皇族の名将・曹休(ソウキュウ)。彼は曹丕の代に賈逵が軍権を与えられることになると、それに反発。「気が強く他人と激突する賈逵では、軍団長は務まりません」と上奏しています。

 

 

太和2年(228)、そんな曹休が敵将である周魴(シュウホウ)の降伏に便乗し、敵陣内に深入り。賈逵は曹休の万一の事態を懸念し、「深入りしすぎれば負ける」という考えは確信に近いものになりつつありました。

 

そして捕らえた敵兵を尋問すると、今回の周魴の裏切りは罠であり、孫権がすでに曹休包囲を完成しつつあるという情報を入手。賈逵の懸念通りであることがここに証明されました。

 

 

賈逵は「後援を待ちたい」という諸将の考えを一蹴すると、急いで死地に赴いた曹休を助けるために急行。敵陣を強襲し、兵力を嵩増しして見せることで呉軍を追い散らし、なんとか曹休と合流します。

 

賈逵のこうした働きや、また周囲の諸将による奮戦があったために曹休は助かり、彼はなんとか死地を脱することができたのでした。

 

 

『魏略』では大人げなく賈逵を嫌う曹休は彼に「お前が遅いからこうなったのだ」責任を転嫁。さらに敵陣に落とした武器を拾いに行くよう賈逵に命令を下しました。

 

対して賈逵は、「私は国家のために戦っているのであって、武器拾いために戦っているのではない!」と一蹴。あくまで責任を賈逵に押し付けようとする曹休とお互いを責め合うように敗戦報告をしましたが、魏はどちらも大事な将なので双方不問にしたのです。

 

>あなたが100%正しいけどそういうところなんだよ賈逵さん!

 

 

とはいえ、『魏書』では敗戦責任をおっかぶせようとする曹休に対し、賈逵はあくまで黙りこくったまま。そのために周囲には「なんて立派な……」と感心されたとあります。

 

 

こうして曹休を助け出した賈逵でしたが、その年のうちに病気にかかり死去。臨終において、側近に「孫権めを討ち取れなかったのが無念だ。葬儀はあるものだけで簡素に済ませよ」と述べたそうな。

 

諡は粛侯。息子の腹黒賈充(カジュウ)がその後を継ぎました。

 

 

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人物像:正義の暴走特急

 

 

 

さて、彼ほど正義感に満ち満ちて、また正義のために暴走しまくった人物の歴史上そう多くないでしょう。

 

清廉潔白で剛毅な、信頼も尊敬もできる偉人。しかし剛直すぎてお近づきになるのはちょっと怖い……。まさしく賈逵は、そんな人物だったと思われます。

 

 

『魏略』では特に彼の暴走ぶりがよく書かれていますが……なんというか、投獄されたときに自分を「正義の人間だ」と言いきったりしちゃうちょっとアレな人ですね。いや、中国名士というのはこんな感じのを良しとしてますし、たぶん賈逵の人格をプラスに評価してこういう話を載せてるんでしょうけども。

 

 

おそらくその波乱に満ちた生涯も、自分の正義を信じて猛進するためにできた敵対者によってなされた讒言や、あるいは身に覚えのない批難から生まれたものが大半でしょう。屯田都尉によるイチャモンも、もしかしたら単に嫌いなだけで根拠のないものだったのかもしれません。

 

 

 

さて、そんなこんなで同僚からはちょっと問題児扱いだった賈逵ですが……彼の仕えた曹魏三大の大物たちには、ことごとく褒めちぎられています。

 

曹操曹丕は当然のこと、実は曹叡からも、よりによって本文中で高く買われていた事績が残っています。

 

 

というのも、賈逵が亡くなってから数年の出来事。なんだかんだ民衆に慕われて勝手に祠を建造された賈逵でしたが、曹叡がその祠に立ち寄って、以下のように布告を出しています。

 

「賈逵の石像を見ると、涙がこみあげてくる。昔の偉人は皆『命よりも名が残らないのが怖い』といったが……賈逵は生きているうちは殊勲を上げ忠義を抱き、死しても慕われる不朽の人物である。よって天下にあまねくその名を知らせ、後世の手本とせよ」

 

 

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魏略が教える賈逵の人となり

 

 

 

最後に、魏略から賈逵のちょっと面白な話やその他色々を……

 

賈逵ははじめ、名前を衢(ク)といったとか。しかし、賈逵に名前を変えたのはいつの話か……。

 

そんな賈逵の好きな本は、『春秋左氏伝』。三国志の次代でも関羽(カンウ)や杜預(トヨ/ドヨ)が愛読したとされる、紀元前中国の歴史書です。彼は太守になってからもこれを必ず1月掛けて読み、読み終わるとまた最初に戻ったとか。

 

 

さて、最後に面白エピソード(?)。

 

賈逵は弘農太守の時に公的なことで典農校尉(テンノウコウイ:小さな軍に置かれる屯田の管轄者)と言い争いになり、結局結論が出なかったことがあります。

 

 

まあそれはどうでもよいのですが……なんとその時、怒りのあまりコブができてしまったのです。しかもそのコブは、放っておくとどんどん大きくなる始末。

 

最後には賈逵は気になって仕方なくなり、「コブを手術して切除してほしいです」と上奏しました。

 

 

しかし当時は、「コブを取り除く者の十人中九人が死ぬ」という迷信が広がっており、曹操はその迷信を信じて「お前は大事な存在なんだから我慢してくれ」と懇願。

 

結局賈逵はそれを無視してコブの切除をし、何食わぬ顔で生き残った……のですが、切除したはずのコブはますます大きくなったのだとか。

 

 

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