田疇


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【田疇伝1】高潔な志と共に

 

 

 

 

 

劉虞配下の忠臣

 

 

 

田疇は剣術が得意で本が大好きという文武両道の若者でした。

 

 

初平元年(190)、田疇の住む一帯を治めていた劉虞が、荒れに荒れた朝廷に「自分が味方である」という意思表示のため従属の使者を送ろうとした時の事。

 

「使者にふさわしい逸材はいないか」と悩んでいた劉虞に対し、彼の臣下は一同して田疇を推薦。かくして22歳で田疇は劉虞配下に加わり、彼に気に入られて特別待遇をうけました。

 

 

そして、お供として若者を20人ほど引き連れてそのまま都へと出立。途中で道路も断絶していましたが。道なき道を進んで都・長安(チョウアン)に到着。使者としての使命を無事に果たしました。

 

この時朝廷からは騎都尉(キトイ:近衛隊長)の地位を与えられましたが、田疇は「王朝がここまで苦労している中ぬくぬくと栄誉だけを預かるわけにはいかない」と拒否したとか。

 

また、そのうわさを聞きつけた役所もこぞって田疇を手元に置こうとしましたが、これも当人はすべて固辞。帝からの返書だけを受け取り、そのまま帰途に就いたのです。

 

 

しかし帰還途中、とんでもない凶報が田疇の元に届いたのです。

 

――劉虞、公孫瓚(コウソンサン)の手にかかり死亡。

 

既に田疇は主君を失っていたのです。

 

 

これを知った田疇は、帰り道で劉虞の墓に立ち寄り、涙ながらに返書を読み上げて哭礼を行い帰還。が、その事を知った公孫瓚は激怒して田疇に懸賞金をかけて捜索。ついには捕縛され、公孫瓚の面前に立たされてしまいました。

 

 

劉虞の事をとことん嫌っていた公孫瓚は、激怒し、「何故あんな奴の墓参りをした! 朝廷からの返書を勝者である俺に何故持ってこない!」と田疇を詰ります。

 

しかし、田疇は毅然とした様子で公孫瓚に返答。

 

「返書は旧主・劉虞に宛てたもので、あなたのものではありません。自分宛てのものでもないのに気持ちよく読むことはできますまい。

 

それに、大事を為されようというこの時に罪なき旧主を滅ぼし、その上で臣下の儀礼を守った私までも手にかけるというのでしたら、それこそ誰も付いてこなくなるでしょうな」

 

 

田疇のしっかりとした反論に公孫瓚は感心し、処刑を取りやめて田疇を軟禁に留めることに。しかしそれも公孫瓚臣下から「義士を幽閉していれば、信望を失う恐れがあります」という声が上がったため、結局公孫瓚は田疇を開放。

 

こうして、田疇は自由の身となったのです。

 

 

 

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北方の独立者

 

 

 

さて、こうして官吏の肩書も罪人の汚名も無くなった田疇は、一族郎党と自身を慕う者数百人を連れて山奥に隠遁。広々とした盆地を見つけ、そこに住居を立てて農耕で生計を立てることにしました。

 

……が、ここまで義士と名高い田疇を慕う者は実に多く、数年後にはちっぽけな隠遁生活のつもりが5千軒を超える世帯が立ち並ぶ、小さな独立勢力にまでなったのです。

 

 

まとまりがつかなくなってきたため、「トップがいたほうがいいよね」という事で合議が行われ、田疇は全員の推挙でその勢力の長に就任。

 

こうして勢力の長となった田疇は、まずは法律を制定。最高を死刑とし、20余りの罪を取り決め、そこから婚姻、学校教育の事業といった具合に、ルールや仕組みをしっかりと作って勢力内を統制したのです。

 

 

その在り方や、田疇の影響下では落ちている物を拾う者はおらず、近隣からも従属や取引、果ては北方異民族からも交易品や貢物が届くほどになったのでした。

 

田疇は、これらを受納し、相互不可侵の条約を取りまとめ、その勢力下は辺境とは思えないほどに平穏になりました。

 

 

その名声はどんどん広まっていき、袁紹(エンショウ)からも将軍の地位を条件に参加に加わるようにともたびたび声をかけられましたが、田疇はこれを拒否。その死後に彼の息子の袁尚(エンショウ)からもやはり誘われましたが、結局田疇は彼の配下に加わることはありませんでした。

 

 

 

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烏丸は許さん

 

 

 

さて、田疇にとって烏丸の異民族の一団は、高官を多く殺された仇ともいえる存在。そのため彼らに何らかの報復がしたいと考えていました。

 

そんな折、曹操(ソウソウ)が烏丸討伐の軍を発足。田疇にも協力を仰いできたのです。

 

 

田疇は曹操への協力を表明し、彼の元に属官として参入。しかし田疇と直接会った曹操は、「こいつは小役人なんぞで収まる器ではない」として、即時属官の役職を撤回。

 

県令(ケンレイ:大きな県の長官)の仕事を与えるものの田疇の側が任地に赴くのを拒否し、結局役職がないまま曹操について行くことにしたのです。

 

 

 

その途上で、曹操軍は水没地帯に到着。夏場の雨季であったためとても通れるものでなく、曹操はどうしたものかと田疇に相談。すると田疇は、「急な山道ならば、敵の裏をつけます。向こうも、この状態でまさか向かってくるとは思わないでしょう」と受け答え、曹操を感心させました。

 

結果、曹操軍は撤退したと思わせて田疇の先導で険阻な山を越え、烏丸の大将を討ち取る大勝を上げたのでした。

 

 

曹操はこの功績を大いに喜び、田疇に爵位を与えることに。しかし、田疇はこれすらもあくまで固辞し、自らの郷里に帰っていったのです。

 

 

 

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心は魏臣に非ず

 

 

 

その後、曹操に滅ぼされた袁尚は亡命した先で殺され、その首が曹操の元に届けられることになったのです。

 

曹操は袁尚の追悼を行った者は処刑すると通達しましたが、田疇はこれに構わず、過去自陣に誘ってくれた恩を理由に堂々とその死を悼んだのです。

 

この話はすぐに曹操の耳に入ってきましたが、曹操は特に問題にはしませんでした。

 

 

後年、田疇は一家を引き連れて、曹操のお膝元である鄴(ギョウ)に移住。

 

その後田疇に爵位を与えなかったことを後悔していた曹操は、意地でも田疇に何らかの官位や爵位を与えようと再三にわたり呼び寄せましたが、田疇はすべてを固辞してしまいました。

 

さらには、周囲からは「ご恩を受け取らないのは不敬である」と処罰を与えるよう求める声と、逆に田疇の心を理解して意思を尊重してやるようにとの声が双方入り乱れるようになってしまったほどです。

 

 

事ここに至って、曹操は人の力を借りることに。自身の腹心であり田疇とも仲が良かった夏侯惇(カコウトン)に相談し、自身の名前を伏せて官位を受け取ってもらうよう依頼。

 

腹心の夏侯惇(カコウトン)までも説得に駆り出して高い位に就かせようとしましたが、あくまで田疇は頑なに拒絶。

 

とうとう田疇を重用するのをあきらめて、低い官位だけを与えるに留めたのです。

 

 

その後、田疇は46歳で死去。息子も早世してしまったため、族孫の田続(デンゾク)がこの後を継ぐことになったのでした。

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うん、やっぱ曹操配下じゃないよこの人。

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