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【袁紹伝2】宿敵

 

 

 

 

公孫瓚撃破

 

 

さて、界橋では見事な大勝利を飾った袁紹ですが、公孫瓚の勢力を削りきるまでには及びませんでした。以後、袁紹は2年という長い時を公孫瓚との一進一退の攻防を繰り広げることに費やすこととなります。

 

 

さらにそうこうしているうちにも情勢は刻一刻と変わっていき、これまで公孫瓚による代理戦争のような状況だった異母弟の袁術との対立はいよいよ表面化。

 

袁術本人はもとより正式に袁術の依頼を受けた公孫瓚や、徐州に割拠する陶謙(トウケン)らによる多方面攻撃が開始され、危機に陥りますが、袁紹は旧友の曹操の助けを得てこれらをなんとか撃退することが出来ました。

 

 

そんな中、公孫瓚が全国でも信望の厚い劉虞を殺害するなどして孤立を深めたことから、袁術らによる袁紹包囲網は瓦解し、逆に劉虞を殺害した公孫瓚に対して反発勢力が連合する結果となったのです。

 

袁紹もそんな連合に合流し、幽州に進出。飽丘(ホウキュウ)という場所で公孫瓚の軍を撃退し、完全に攻めの手を絶つことに成功したのです。

 

 

 

敵連合の陶謙や盟主の袁術曹操によって力を削がれ、袁紹にとっての修羅場は完全に終わりを迎えたのでした。

 

 

 

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袁紹軍の禍根

 

 

 

さて、こうして公孫瓚を撃破、目下最大の危機をしのぎ切った袁紹ですが……この頃から曹操軍との仲が急速に冷めていき、一触即発といった関係になりつつあったのです。

 

 

そんな中、漢の帝が首都・長安を脱出し、東の河東(カトウ)まで逃れてきたという報告を得ました。袁紹はこれを聞き、幕僚の郭図(カクト)を帝への使者として派遣。戻った郭図は「帝を我らで保護いたしましょう」と献策しますが、元々現代の帝が原因で董卓から逃げ、別の帝を擁立しようとすらしていた袁紹は首を縦には振らなかったのです。

 

その後、曹操が一番に帝を保護し、擁立。自らの本貫地となりつつあった許(キョ)を新しい都とし、周辺を影響下に加えてしまったのです。

 

これでは面白くないと考えた袁紹は、曹操領内でも自らの領地に近い鄄城(ケンジョウ)を都にしないかと曹操に打診しましたが断られ、曹操との外交関係にヒビが入ったとか。

 

 

その後、曹操が将軍中でも最上位の大将軍に任命されたときも袁紹は異を唱え、渋々曹操から大将軍の地位を譲られる等、水面下で争いごとの火種になりつつあるのが伺えます。

 

 

 

また、これは公孫瓚が滅ぼされて後の話なのですが……沮授の進言通り河北の四州を制圧した袁紹は、嫡子の袁譚(エンタン)を青州に送り込み、その統治を任せることにしました。

 

この時、沮授は「後継者争いの火種をバラまくのですか!」と諫言したものの、袁紹は「我が子らの実力を見てみたい」と言ってきかず、そのまま次男の袁煕(エンキ)を幽州、そして甥の高幹(コウカン)を幷州に遣ったと言われています。

 

 

献帝を擁立しなかったことと息子らに分割統治をさせたこと。これらは袁紹死後にその軍を瓦解させ、後々曹操に付け入る隙を与えてしまう事となるのです。

 

 

 

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易京の戦い

 

 

 

さて、ともあれ、公孫瓚を再起不能までに破った袁紹ですが、実は公孫瓚には最後の切り札と言いますか、まだまだ挽回の手段は残っていたのです。

 

それが、十年籠れると評判の堅城である易京(エキキョウ)と、公孫瓚との戦いで常に背後を脅かしていた黒山賊(コクザンゾク)という黄巾軍の一党。

 

 

袁紹は飽丘での勝利の後も公孫瓚討伐の兵を何度も差し向けましたが、難攻不落の易京を攻略できず撃退されてしまう始末。袁紹は易京の包囲をなんとか完成させたものの、決定打を打てずに戦いは膠着しつつあったのです。

 

 

そんなある時、公孫瓚が盟友の黒山賊へと送った密書を入手。内容は、「到着したらのろしを上げてくれ。それに呼応して我々も出撃する」というものでした。

 

 

これによって一計を思いついた袁紹は、数日後にのろしを上げて公孫瓚を釣り出し、伏兵を用いて大打撃を与えて打ち破り、さらには地下道を掘り進めて城郭を崩しながら公孫瓚へ迫っていったのです。

 

これを知った公孫瓚は、さすがに観念して自害。これにより袁紹軍は宿敵の公孫瓚を打ち破り、見事に河北統一を成し遂げたのです。

 

 

これで、主なは勢力を拡大しながらも敵を相手に右往左往する曹操軍のみ。袁紹軍は満を持して、関係が悪化しつつあった曹操軍と手を切り、開戦に踏み切ったのです。

 

 

 

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官渡の戦い

 

 

 

 

観戦に臨んだ袁紹は、少し前に曹操に反旗を翻した劉備(リュウビ)らを配下に加え、曹操軍を撃破すべく南下を開始。手始めに、将帥の顔良(ガンリョウ)を曹操軍の拠点に送り込みます。

 

この袁紹の動きに対して沮授は「顔良は勇猛ですが思慮が足りません。危険です」と諫めますが聞き入れられず、顔良は曹操との戦いで虚を突かれて戦死。続けて同じく将帥であった文醜(ブンシュウ)を送り込みますが、彼もまた曹操にしてやられて討ち取られてしまいました。

 

事ここに至って、袁紹は自ら本隊を率いての総攻撃を開始。沮授の「曹操軍は精強で危険。持久戦を展開しましょう」という意見を却下し、自ら曹操軍と正面からぶつかる選択をしたのです。

 

この時、曹操袁紹との決戦に踏み切り、両者は激しくぶつかり合いますが、結果は袁紹軍の勝利に終わり、曹操軍は戦力の二割ほどを消耗する大打撃を負ったとされています。

 

 

こうして城に籠ってしまった曹操に対し、袁紹は高台ややぐらをいくつも設けて高所からの射撃で曹操軍を追い詰め、その戦意を多い逃げずります。が、曹操軍も負けじと投石車を出して応戦。

 

さらに得意の地下道戦術で曹操軍を追い詰めようとするものの、曹操も負けじと塹壕を深く掘ってこれを牽制します。

 

 

さらには曹操袁紹軍の軍需物資を強奪して焼き払うなど、攻めても攻め切れない状況が続きます。

 

 

しかしそんな対陣が何日も続く中、曹操軍から袁紹軍に寝返る者が多くなり、疲弊の色が見え始めたのです。さらには兵糧も欠乏し、曹操軍は壊滅寸前。これで袁紹は、旧友である曹操を撃ち果たすことに成功……したかに思われましたが、天は袁紹の勝利を許しませんでした。

 

 

袁紹軍は大軍であり、その軍需品をまかなうのも一苦労だったのですが……ある時、袁紹軍の主将である淳于瓊(ジュンウケイ)が、軍中でも欠乏しつつあった軍需品の輸送を輜重隊から引き継ぐため、北へと向かったのです。

 

この時も沮授は「淳于瓊を援護すると同時に、曹操軍の略奪を防ぐべきです」と進言したものの、聞き入れず。これが、命取りになってしまったのです。

 

 

大量の軍需品を受け取った淳于瓊は、戻る途中に烏巣(ウソウ)で休息をとりますが……この折に曹操軍が淳于瓊を襲撃。実は参謀の許攸(キョユウ)という人物が、この情報をネタに曹操軍に寝返っており、本来流れるはずのない情報が完全に漏らされてしまっていたのです。

 

 

袁紹は足の速い騎馬隊を急いで派遣しますが間に合わず、淳于瓊は敗死し救援部隊も撃退されてしまい、軍需品はすべて焼き払われてしまったのです。

 

さらに、手薄になっていた曹操軍本隊への攻撃も並行して行っていましたが、攻めきれずに主将の張郃(チョウコウ)らが曹操に降伏。

 

袁紹軍は大混乱の総崩れになり、袁紹らは単騎で戦場を脱出を余儀なくされるほどの手痛い敗北となってしまい、さらにはこれまで頼れる参謀であった沮授も生け捕りにされ、そのまま殺されてしまったのです。

 

 

 

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さよなら名族

 

 

 

官渡で未曽有の大敗北を喫した袁紹はその名声を傷つけられてしまい、各所で反乱が頻発するなど求心力を大きく削がれてしまった様子が伺えます。

 

また、官渡の敗戦の後、戦前に曹操との決戦に反対した田豊を「恥をかかされた」として殺害してしまったともありますが……もはや余裕がなくなったのか、他の何かしらの理由があるのか……。

 

 

 

ともあれ、名声がボロボロになっても袁紹軍はまだまだ健在。曹操軍は反乱頻発の隙を突いて倉亭(ソウテイ)で袁紹軍を破るなど局地的には勝利を得られますが、本格的な侵攻には移れなかったようです。

 

反乱軍に関しても、袁紹自らの手腕もあってすべて平定され、袁紹がこのまま力を蓄えれば、第二の官渡の戦いが発生する可能性もあったように見受けられます。

 

 

……が、官渡での敗戦から2年近く経った建安7年(202)、態勢が整うのを待たずして、袁紹は憂悶の内に死去。

 

 

袁紹という大黒柱で強引に統率されていた袁紹軍は、その後名士層での派閥争いから子供らによる後継者争いに発展し、数年後には曹操に食われることになってしまったのです。

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