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【袁紹伝1】サバイバル坊ちゃん

 

 

 

 

 

血濡れの名族

 

 

袁紹の生まれた家は、父からさかのぼる事4代にわたるまで三公(軍事、民事、法務における大臣職の総称)を輩出したエリート中のエリートで、まさに政治の顔とも言うべき血筋の持ち主でした。

 

……が、袁紹の身分は庶子。つまり、正妻でなく妾の子であり、血統はよくてもその家柄を万全に使えるものでは無かったのです。

 

 

そのため、袁紹がとった行動は、とにかく控えめで礼儀正しい好青年を演じること。儒教的に好感を持たれる人物として周囲にアピールすることで、袁紹は若い頃から多くの人の信望を勝ち取ることに成功しました。

 

なお、後の宿敵である曹操(ソウソウ)ともこの時親交があり、信憑性はともかく一緒にヤンチャしていた逸話も残っています。

 

 

そんな袁紹もいつしか立派に育ち、当時大将軍の位にいた何進(カシン)の属官から推薦を受けて侍御史(ジギョシ:監査官)隣、その後西園八校尉(セイエンハチコウイ)なる官職が設立されると、袁紹は八校尉の内ひとつの中軍校尉(チュウグンコウイ)に昇進。その後さらに位を上げ、司隷校尉(シレイコウイ:首都圏の警察署長)にまで上り詰めました。

 

 

 

『英雄記』によると、幼くして父が死んだため同族の別の家に預けられた後、幼少のころから役人に取り立てられたとか。

 

その後濮陽(ボクヨウ)の長官に任命されて高い評判を得たものの、母が亡くなると喪に服し、以後しばらくは世間との交友を絶ち、有名な名士でなければ彼に会えないという状況が続きます。

 

 

その後、政治の実権を握っていた宦官から引きこもりの不良とのうわさを聞いた叔父に「出てこないと家が滅ぼされる」と泣きつかれるまで、世間に出る日は無かったとか。

 

 

中平6年(189)に現皇帝の霊帝が崩御すると、宦官と何進らの間で、次代皇帝をの跡目を巡って政争が勃発。

 

何進らは宦官の粛清を計画しますが、皇后となった妹は首を縦に振らず、計画は難航していました。

 

 

そんな状況を打破するために、何進らは西域で幅を利かせている董卓(トウタク)の召し寄せと、宦官誅殺に向けた圧力強化を計画。

 

宦官たちの重責者はこれを知って慌てて何進に謝罪をし、何進もこれを受け入れました。事態の悪化を心配した袁紹は宦官の誅殺を再三にわたって進言しましたが、宦官とひとまず休戦するために何進はこれを聞き入れず。

 

こうして、この騒動には一応の決着がついた……ように見えました。

 

 

が、その後日、宦官らは謀略により何進を暗殺。宮中は混乱状態に陥りました。

 

こうなることを予見していた袁紹は、弟の袁術(エンジュツ)やひそかに募っていた武官らと共に宮廷に乱入。この時、宦官の一味と思しき者は皆処刑されるほどの騒動となったとか。

 

 

この急進の極みともいえる乱入によって、死傷者は間違って殺されたものも含めて2千人にも及び、宦官のほとんどを誅殺。

 

 

袁紹による武力鎮圧によって宮廷内の混乱はそのまま沈静化し、一度は脱出した帝も宮廷に帰ることができたのですが……その帝を護衛していたのは、西涼から到着した董卓の軍。

 

何進暗殺に端を発した一連の騒動により、董卓は「帝を守った功臣」という立場を得てしまい、以後、彼によってしばらく漢室の実権が握られるようになってしまうのです。

 

 

 

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董卓連合

 

 

 

さて、こうして実権を握った董卓ですが、彼は実はとんでもない男でした。ある時袁紹も呼ばれ合議が行われたのですが、この時の董卓の提案は、なんと「帝の廃位」についてだったのです。

 

 

帝と言えば、王朝の象徴ともいえる存在。当時は神にも等しい存在とされており、ホイホイと挿げ替えてよいものではなかったのです。

 

内心面喰った袁紹は心の中で反対意見を決めますが、その場には叔父も出世息しており、下手な発言はできなかったとされています。

 

 

そのため、袁紹は表向きは賛成意見を述べ、「重大事であり、重臣の方々と相談してまいります」とその場を即座に離脱。そのまま冀州まで逃亡してしまったのです。

 

董卓はそんな袁紹の態度に怒りをあらわにし、賞金首に仕立て上げることにしましたが……後に名士らに諭され、逆に袁紹には渤海(ボッカイ)太守の地位を与えることとなり、董卓の直接の支配下から抜け出すことに成功。

 

 

すぐに渤海で兵を集め、諸侯と共に反董卓の兵を挙げて董卓に反発。諸侯らの頼みによって盟主となり、車騎将軍(シャキショウグン)を自称し董卓軍を追い詰めるべく行動を開始。

 

 

こうして反董卓の旗の下に多くの将兵らが集まったのですが、その諸侯らは決して一枚岩ではなく、「董卓をどうにかしたら後は自分が……」という思いを秘めており、さらに董卓軍が盛況だったのもあって積極的に戦おうとしませんでした。

 

かくいう袁紹も、動きを見せずに酒盛りするばかり。この戦いにおいて、まじめに戦ったのは孫堅軍と、曹操を中心とした面々だけだったとされています。

 

 

そうこうしているうちに、董卓は都の洛陽を焼き西へと逃亡。都奪還の目標を失った反董卓連合は瓦解し、袁紹含める諸侯は互いに天下をかけて奪い合う群雄割拠の様相を見せ始めたのです。

 

 

ちなみに袁紹はこの時、皇族の血筋である劉虞(リュウグ)を新しい皇帝に据えて董卓政権を全否定してやろうともくろみますが、当の劉虞から固辞されて計画を断念しています。

 

 

 

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地盤を固める

 

 

 

董卓連合が改案してからというもの、天下の名声を席捲するのは袁紹の弟にして正当な袁一門の後継者である袁術でした。

 

袁紹はこの時反袁術の気勢を明らかにし、弟と骨肉の争いを展開。

 

 

しかし、袁紹には地盤と領土が足りておらず、そのままでは勝つこともままならないといった様子。そのため、袁紹は領土の拡大を計画。そこで目を付けたのが、盟友である韓馥(カンフク)が治めている、冀州の肥沃な土地でした。

 

 

この時、袁術連合に加入していた幽州の公孫瓚(コウソンサン)によって、韓馥の領土は侵攻の危機にさらされていました。当の韓馥はこれに対し、臆病風に吹かれて不安でたまらない様子であったと言われています。

 

そこで袁紹は、韓馥に対してある交渉を開始。部下を遣って、

 

 

「あなたでは公孫瓚に勝てません。ここは、袁紹めに冀州をお譲りください。そうすれば、韓馥さまは身の安全と、『賢者に国を譲った』という徳行の二つを手に入れることができますよ」

 

 

 

実のところ公孫瓚の軍は精強で知られており、勝ち目がないと考えていた韓馥は、この提案を快諾。袁紹はこれによって冀州という強固な地盤とそこの名士らを手に入れることができ、不安定だった地盤を固めることに成功。これからは、小勢力ではなくれっきとした群雄として、覇道の道を歩んでいくことになるのです。

 

 

 

 

 

界橋の戦い

 

 

 

さて、こうして基盤を得た袁紹は、さっそく召し抱えた沮授(ソジュ)の提案により黄河より北の、冀州、幷州、青州、幽州の四州平定を目標に行動を開始。

 

この時董卓から服従しろという使者が来ましたが拒否し、その結果袁一族が処刑されるという憂き目にも合っていますが、それを聞いた家臣らは袁紹のために復讐を誓ったとか何とか。

 

 

なお、冀州を譲った韓馥はというと、張邈(チョウバク)の元に逃れていた者の、袁紹からの使者が張邈の元を訪れた際、「殺される」と感じて自殺したとか何とか。あ、ダメだこの人

 

 

そんなこんながあって初平3年(192)に界橋でいよいよ公孫瓚の軍勢と激突。

 

この戦いは公孫瓚のほうが数は圧倒的優勢、しかも公孫瓚軍は超精鋭部隊として知られており、袁紹軍の敗北は濃厚とされていたそうな。

 

 

しかし、袁紹は麹義(キクギ)という武将を戦法に迎撃部隊を配置。圧倒的大軍を相手に勇戦し、見事に大勝を飾ったのです。

 

 

 

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この戦いのいきさつは『英雄記』に詳しいです。

 

 

公孫瓚軍は主力3万を中央、そして精鋭の騎馬隊を左右に展開し、小勢の袁紹を一気に包囲殲滅する構えを見せていました。

 

対し袁紹軍は先鋒部隊わずか八百を囮とし、千余りの弩兵での十字砲火戦法を展開。

 

 

戦法の麹義は特に対騎馬戦闘には慣れたもので、この作戦は彼が考案したものだとも。

 

敵軍は小勢と見た公孫瓚はまんまと騎馬隊を麹義隊に差し向けて突撃を敢行。対して麹義は、大盾を構えさせて味方の視界をあえて潰し、逃げることのない不動の陣形を敷いていました。

 

 

その結果、騎馬隊の突撃に対し麹義隊は一歩も退かず。逆に優位なはずの公孫瓚軍は十字砲火を前に自慢の騎馬隊に大打撃を受け、さらに麹義隊の反撃によって武将の厳綱(ゲンコウ)が討死。その後の再戦も麹義隊の圧勝に終わったのです。

 

 

 

また、反撃時に袁紹軍本隊はほとんど軍を置かない手薄な状態でしたが、そんな折にたまたま逃げ延びてきた公孫瓚の騎馬隊が突如来襲し、一気に劣勢に立たされることとなりました。

 

降り注ぐ矢の雨の中、参謀の田豊(デンホウ)が袁紹を大盾の中に押し込もうとしますが、袁紹はこれをはねのけ、「大の男が無様に逃げて生きるものか! 突き進み討死するのが本望よ!」と言い放ち、ついには弩兵隊の乱射もあって騎馬隊を撃退してしまったそうな。

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