【劉禅伝1】後主奮闘記


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【劉禅伝1】後主奮闘記

 

 

 

 

 

劉備「後は任せた……」

 

 

 

劉禅が生まれたのは、建安12年(207)。劉備が荊州の新野(シンヤ)に間借りして、曹操軍としのぎを削っていたころ。

 

しかもその1年後には荊州全体は曹操に降伏し、劉備曹操軍からの逃避行を余儀なくされます。しかもこの時曹操軍の追撃が激しく、まだ年端のいかなかった劉禅は混戦の中で劉備とはぐれて(というか置いて行かれて)しまったのです。

 

 

この時劉備の臣下である趙雲(チョウウン)が母ともども劉禅を助けてくれたため事なきを得ましたが……その裏では劉備の娘が曹操軍に捕まっており、一歩間違えばここで亡くなっていた可能性すらあったことが容易に想像できます。

 

 

 

さて、そんな激動の幼少期を過ごした劉禅でしたが、建安24年(219)に劉備が漢中王(カンチュウオウ)を称するようになると、晴れて皇太子に任命され、劉備が帝位に就くとそのまま劉禅も次期皇帝として将来を保証されるようになったのです。

 

この時劉備劉禅に対し、「教育係の言う事はよく聞き、一つの事で三つの善を行えるようはげむのだぞ」と声をかけ、期待を向けるようになります。

 

 

しかし、その劉備はその後に孫権軍を攻めて未曽有の大敗北を喫し、章武3年(223)に死去。劉禅は17歳にして、もはや亡国寸前にまで叩きのめされた弱小国家の主として歩む運命を背負ったのです。

 

 

 

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有能な補佐に恵まれて

 

 

 

さて、こうしてほぼ無理難題にも近い運命を背負い立つことになった劉禅ですが、それでもまだ諸葛亮を始め有能な家臣団が控えていました。

 

劉禅は彼らに国家の事をほぼ一任。自身はあくまで国家の象徴に徹して必要な時以外は表舞台に立たない道を選んだのです。

 

 

皇帝の位を継いだ劉禅は、大赦を行い年号を建興に改め、そして張飛(チョウヒ)の娘を皇后に立て、険悪な間柄となってしまっていた孫権(ソンケン)に対して再同盟の使者として鄧芝(トウシ)を派遣。鄧芝の弁舌によって呉との友好関係を復旧させ、ひとまず蜀は内部の鎮圧に力を入れることとなりました。

 

 

 

まず、朱褒(シュホウ)や雍闓(ヨウガイ)、高定(コウテイ)らの反乱に続き、益州南部で次々と発生する反乱を鎮圧するために諸葛亮らが出陣。

 

大規模に膨れ上がった反乱に諸葛亮らが対応している中、劉禅ら蜀朝廷は建興2年(224)に農業の奨励を大規模に実施。外部に続く関門も閉ざして民衆に安らぎを与えることに注力します。

 

 

そして翌日の春には、反乱鎮圧軍も無事に役目を終えて帰還。亡国同然という荒廃具合であった蜀は、わずか2年の内に国として成り立つだけの力を取り戻したのです。

 

 

こうして力を蓄えていた蜀は建興5年(227)、魏が世代交代でバタついている隙を見てついに出撃を決定。しかし魏を揺るがすほどの大勝利を得ることができず、攻めては撤退の繰り返しで進展が見えないまま、魏との争いは混迷化。

 

劉禅は血族を魏呉との境界線に王として土地を与え、少しでも国家の安寧を与えられるように動きます。

 

 

しかし、建興12年(234)に諸葛亮は出陣した先で死去。国内では楊儀(ヨウギ)と魏延(ギエン)の対立がありましたが、魏延を斬ることで一応の終息を得て、大赦を行って軍事では呉懿(ゴイ)、政治では蒋琬(ショウエン)を中心に置くことで、諸葛亮という大きな穴を埋めようとしたのです。

 

 

 

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重臣の死により……

 

 

 

その後は楊儀が「自分がトップになれなかったのはおかしい」とかき回したり、妻の張氏(チョウシ:敬哀皇后とも)が亡くなったりといった朴報こそありましたが、国家としての力はまだまだ健在。

 

逆に攻めてきた魏軍を押し返すなど、その軍事力は大きくは衰えていませんでした。

 

 

皇后の死もその妹を新たな皇后に立てることで政治的部分での問題を解決し、新たに皇太子も立てて年号を延煕に会合。

 

これでしばらくは国としての機能は保てていたのですが……延煕9年(246)に蒋琬が死去。ここから小規模な民衆反乱も見られるようになり、国内に不穏な空気が流れ始めたのが見て取れます。

 

 

さらには、ここからは陳祗(チンシ)を始めとした複数の政治家がそれぞれ政治を動かす多頭体制に移行しつつあり、その乱れの中、後に蜀を揺るがす黄皓(コウコウ)も密かに権力を増していくなど不穏な影が広がり始めていたのです。

 

 

そして延煕16年(253)、蜀をまとめる柱石として最後の希望と言える費禕が魏から降伏した郭循(カクジュン)なる人物によって暗殺され、蜀は一気に暗転していくことになったのです。

 

 

『魏略』では、蒋琬の死により劉禅自らも国政に参加するようになったと書かれています。ここまで御輿に徹してきた劉禅にとって、突然良く知りもしない国政を握れというのは、やはり酷な話だったのでしょう。

 

実際にこの頃から大赦の記述が多くみられ、政治の弛緩も滅亡の遠因なのではという声も根強いです。

 

 

 

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蜀の降伏

 

 

 

さて、費禕の死去から間を置かずしてまず動いたのは、軍事のトップに立った姜維(キョウイ)でした。姜維はすぐに北伐軍を編成し、魏領へと侵攻。しかし、鄧艾(トウガイ)を始め魏のぐ厚い人材層に常に阻まれ続け、結局は失敗。

 

その後は毎年のように姜維による北伐が敢行され、その都度劉禅が大赦によって臣下らの機嫌を伺うという流れの繰り返しで、国力は見る間に疲弊。次第に国内でも不満が噴出し、姜維を嫌って引きずりおろそうとする文官たちも続出するほどになりました。

 

 

そしてそんな中、景耀元年に劉禅補佐の中心的人物であった陳祗が死去。ここに来て黄皓が政権を握り、後々専横を極めるようになってしまったのです。

 

 

黄皓は讒言により気に入らない臣下を失脚させて回り、その力は日に日に強大になっていき、多くの臣下も保身のために仲間同士で助け合うばかりで誰も彼を失脚させようと動かなかったと言われています。

 

 

そんな黄皓でしたが、北伐の念に駆られて暴走する姜維の失脚を目論んだ時だけは賛同者も多く、諸葛亮や董允の息子もこれに連名したとか。

 

 

ともあれ、そんな状態では国は長くは持ちません。景耀6年(263)、ついには魏の侵攻を許し、その滅亡の時を迎えてしまったのです。

 

元々厳しい戦いでしたが、鄧艾によって成都近郊まで迫られた劉禅は、配下の譙周(ショウシュウ)の進言により降伏を決定。この決定に五男の劉諶(リュウシン)が家族と心中し、多くの家臣らも涙してこの降伏を悔やんだとされています。

 

 

ともあれ、こうして蜀の皇帝という大任から解き放たれた劉禅ですが、翌年に旧臣による反乱失敗もあって付き従う者は少なく、郤正(ゲキセイ)らわずかな家臣と息子らを伴って洛陽に移送されることに。

 

その後は安楽公(アンラクコウ)として、父の育った地にも近い幽州へと領地を移され、そこで一生を終えたのです。

 

 

 

『漢晋春秋』では、劉禅の暗愚なんだか父親似のタヌキなんだかよくわからない逸話が載せられています。

 

司馬昭(シバショウ)との宴会の折、彼は劉禅のため蜀の音楽を披露。これを聞いた周囲の家臣らは泣き始めたにもかかわらず、劉禅だけは平然としていました。

 

そのため司馬昭も「こりゃ確かに駄目君主だわ」と一笑。

 

 

その後日、司馬昭は再び劉禅の元を訪問。「やはり蜀のことは思い出したりしますか?」とさり気なく質問してみたところ、劉禅からの返答は、「いやいや、ここでの暮らしが楽しくて思い出すこともありませんよ」というもので、周囲を呆れさせました。

 

そしてこれを聞いた郤正が、「ここは『蜀がある西を向いては心が痛み、一日とて思い出す日はございません』と悲しんでください」とアドバイスを送ると、後日同じ質問をされた劉禅はその通りに返答。

 

司馬昭は「郤正と同じこと言ってるよ」と一言ぼやくと、劉禅は驚いた顔をして「まさしくその通りです」と返答したため、その場にいた者は皆大笑いしたのでした。

 

 

亡国の主とは、基本的に叛逆を警戒されて殺されるようなこともよくある存在。本当に悔しがったり悲しんだりすれば命はなかったかもしれないため、これもまたタヌキ芝居にも見えてしまいますね。最も、本音からこのようなアホな発言をした可能性は否定できませんが。

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