【太史慈伝2】大志と信義と


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【太史慈伝2】大志と信義と

 

 

 

 

江東の地へ

 

 

 

さて、はるか南へと下り、長江を渡った太史慈は、今度はある人物を頼ることにしました。江東の地で揚州刺史(ヨウシュウシシ:揚州の長官)の仕事についた劉繇(リュウヨウ)です。

 

劉繇は実は太史慈と同郷の出身者であり、当時の同郷は血縁と同義と言えるほど強い結びつき。そのため、同郷として一度挨拶しておくと後々につながるのではと踏んだのです。

 

 

こうして主要都市である曲阿(キョクア)にて劉繇と面会した太史慈ですが、彼がその地を発たないうちに、揚州に激震が走ったのです。

 

 

――孫策(ソンサク)襲来。

 

 

態勢は盤石ではないとはいえ兵力差は有利なはずでしたが、この風雲児の将としての器は規格外。真正の化け物相手に、劉繇軍は劣勢に立たされ苦戦していたのです。

 

そこで劉繇軍中では、「武名高い太史慈を総大将に迎え撃たせてはどうか」という声が上がりました。

 

しかし、劉繇はこれを渋ります。

 

というのも、当時の太史慈は個人武勇こそ圧倒的でも軍勢を率いた功績がこれといって存在せず、何より、上奏文の一件もあって世間の評判はあまり良いものではなかったのです。

 

 

「評判の悪い太史慈を使うと、政界を握っている許劭(キョショウ)に悪印象を与えて今後に影響を与える……。未知数の統率力に賭けて博打を打つだけの見返りはないかもしれない」

 

 

そう考えた劉繇は太史慈を任用することはせず、彼には偵察任務を与えるだけに留めたのです。

 

 

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大将との一騎打ち

 

 

 

さて、こうして1人のお供と一緒に敵情視察に発った太史慈でしたが、ここで思わぬ僥倖にありつきます。

 

なんと、敵総大将の孫策がわずか13人の供回りと共に、同じく敵情視察に向かっていたのです。おい大将何やってんだ

 

 

一応孫策の脇に控えているのは、韓当(カントウ)、黄蓋(コウガイ)、宋謙(ソウケン)ら勇壮たる猛者ばかり。しかし、これだけの少数で大将が行動するのは珍しく、まさに千載一遇のチャンスでもあったのです。

 

 

太史慈は一切の逡巡なく突き進んで大音声を上げ、そのまま孫策に向かって行ったのです。

 

また、孫策の方も自ら躍り出るようにして太史慈と打ち合い、両者はほぼ互角の激しい攻防を見せたと伝わっています。

 

 

孫策は太史慈の馬を突き殺してうなじの部分につけている手戟(シュゲキ)を奪い取り、また太史慈も孫策の兜を奪い取って見せるなどして自身の力を存分に見せつけました。

 

 

……が、両者の決着が着く前に双方の軍勢が事態を察して駆けつけたため、勝負はお預けに。

 

こうして絶好の機会を逃した劉繇軍は孫策軍によって一気に打ち破られ、そのまま再起を図るべく逃亡を余儀なくされたのです。

 

 

本当何やってんだこいつら

 

 

 

 

 

 

大志VS大志

 

 

 

劉繇の落日をこの目で見た太史慈は、途中で姿をくらまして軍を離脱。山の中で潜伏した後、取り残された敗残兵を糾合し、驚くべき行動に出たのです。

 

 

孫策が東に目を向けたのを見計らい、空白となった丹陽(タンヨウ)太守を自称。自らが江東の覇者になるべく、行動を開始したのです。

 

全体の情勢を見極め、太史慈は自身の本拠を孫策の影響力がない西側の涇(ケイ)県に設置。未統治の空白地帯を根こそぎ奪い、それらを糾合して孫策と戦う腹積もりでした。

 

 

……が、孫策の動きは早く、またたく間に東側を制圧。時間にもある程度余裕を見ての蜂起だったにもかかわらず、それを上回る快進撃に、太史慈は一気に窮地に立たされてしまいました。

 

 

それでも帰服してきた山越(サンエツ)族の兵士らを率いて太史慈は奮戦しましたが、孫策軍主力による怒涛の攻めの前に敗北、とうとう膝を屈することになってしまったのです。

 

 

死を覚悟して孫策の前に引き立てられた太史慈でしたが、そんな覚悟をよそに、孫策は縄を解くと唐突に話しかけてきたのです。

 

 

 

「さて、お前は俺と派手に一騎打ちをした仲だが……もしあそこで俺が負けて捕われていたのなら、お前は俺をどうしたと思う?」

 

 

唐突な問いに、真意を測りかねた太史慈は「皆目見当もつきません」と受け応えると、孫策は大笑い。

 

 

「だったら、お前がとったであろう行動と同じことを俺がしてやるよ!」

 

 

そう云い放った孫策は、太史慈に折衝中郎将(セッショウチュウロウショウ:ここでいう中郎将は将軍の下に当たる位)に任命。まだ将軍職すら得ていない孫策軍の配下としては異例のVIP待遇を与えることにしたのです。

 

これ以降太史慈のその派手な危険行動は鳴りを潜め、完全に孫家の忠臣という立場に収まる事となったのでした。

 

 

 

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己を知る者には信義を

 

 

 

太史慈が孫策に降ってほどなく、再起を図って力を蓄えていた劉繇が病により死去。突然の死により、劉繇に付き従っていた兵や民たちは行き場を失ってしまいました。

 

孫策はこの様子を見て、拠り所を無くした民たちの慰撫、吸収のため、最後に劉繇が拠っていた豫章(ヨショウ)に太史慈を派遣しました。

 

 

しかし、この判断は他の者たちからすると不穏分子でしかありません。当然周囲では動揺が広がり、「ついこの間まで覇権をめぐって争っていた太史慈が、野放しにされて返ってくるはずがない」と、側近たちは皆口々に唱えていたのです。

 

しかしそんな中でも孫策は、「太史慈は俺以外の奴と合力できねえよ」と至って楽観。

 

 

自身をすっかり信任してくれた孫策に対して太史慈も「60日以内に終わらせて戻ります」と告げ、孫策本人に見送られながら出向。宣言通り、60日以内に領内慰撫を終わらせて戻ってきたのでした。

 

 

『呉歴』では、この話は太史慈が降伏してすぐ、劉繇軍の敗残兵を集めて戻ってくるという話に変わっています。

 

また史書によって側近の予測も変わっており、『江表伝』では「同郷の華歆(カキン)と共に敵対する」「黄祖(コウソ)の元へ逃げる」など様々といったところ。

 

いずれにせよ、孫策が常道を突き破った起用に周囲が混乱したこと、そして太史慈はそんな孫策の意思に応えたこと。そして太史慈が元劉繇派の人材を呼び込んだことで孫策の東呉の基盤が急速に固まった事は間違いないでしょう。

 

 

 

 

 

孫呉の将軍

 

 

 

さて、こうして孫策軍で一定の地位と信頼を得た太史慈は、続けて西の劉表(リュウヒョウ)との隣接地帯を治めることになりました。

 

この土地は陸続きで孫家が得意とする水軍が活かせないこともあり、半ば相手の侵攻を許容する土地となっていました。その結果、劉表の甥である劉磐(リュウバン)が侵攻し危険にさらされており、その抑え役として抜擢されたのです。

 

 

太史慈は軍を率いて劉磐の軍勢を見事に食い止め、その後劉磐はすっかり鳴りを潜めたのです。

 

 

 

孫策が亡くなってその地位を孫権(ソンケン)が継ぐと、曹操(ソウソウ)による江東勢力の引き抜き工作が激化。太史慈もこの時曹操から当帰(トウキ)という生薬を贈られて暗に「北に戻ってこい」と誘われましたが、あっさりと拒否しています。

 

 

孫権はそんな太史慈を信任して引き続き南方諸県の抑えを任せましたが、赤壁の戦いよりも前となる建安11年(206)、41歳で死去。大きな戦に出ることなく亡くなった事が、呉将でなく群雄の枠に入れられた大きな理由なのかもしれません。

 

 

 

 

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