【太史慈伝1】割とヤバめの剛毅な勇者


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【太史慈伝1】割とヤバめの剛毅な勇者

 

 

 

 

 

剛の策謀家

 

 

 

武官として活躍した人物の最初期が文官だったというのも歴史ではよくありますが、太史慈もそんなイメージと異なったキャリアを踏んだ人物の一人でした。

 

彼の最初の役職は、生まれである東來(トウライ)郡の郡役人。学問好きだったともあり、おそらくそれなりに大きな家柄だったのでしょう。

 

 

 

さて、そんなある時、郡と青州の役所との間でトラブルが発生。当時は現状証拠を確保しづらいため「先に朝廷に訴えたもの勝ち」という問題も少なくなく、東來と青州の役人たちも自分たちが先に上訴しようと躍起になっていました。

 

結果は州が先に上奏文を片手に出立。東來郡は後れを取ることになってしまいました。

 

 

 

上奏合戦に敗北必至の東來郡は、慌てて使者を選別。太史慈が選ばれることになり、彼はなんとしても州役所の使者に追いつけるよう昼夜兼行で強行。ついに関所にて取次ぎの最中であった州側の使者を見つけたのです。

 

 

「上奏文はどこにあるの?」

 

 

と、追いついた太史慈は何食わぬ顔で使者に声を掛けます。すると使者は無警戒にも車の上を指差し、「そこにあるよ」と返答。

 

これをしめたと思った太史慈は「間違いがあったら大変だからね」と、確認を名目にまんまと上奏文を奪取。それをその場で破り捨ててしまったのです。

 

 

「俺の上奏文があぁぁぁぁ!!!」

 

 

使者はすべてを悟って絶叫するも時すでに遅し。重罪は免れないとあたふたする使者に対して、太史慈はこう呼びかけます。

 

 

「上奏文を俺に渡したのはお前だが、破ったのは俺だ。つまり責任は俺ら2人にある。まあ、俺も仕事は確認だけだったのにやり過ぎたからね。どうせこのままじゃ居場所もないし、逃げちまおう」

 

 

そういうと半狂乱のまま同意した使者を連れて門を発ち失踪。途方に暮れる州役人と共に逃げ出しましたが、なんと太史慈はその後役人を捨て置いてさっさと退散。一人で引き返し、そのまま郡からの上奏文を提出してしまったのです。

 

 

これによって裁判は州の過失が大きいと認められることとなり、太史慈は一躍名を上げました。

 

しかしその代償として青州の州役場からは大きく恨まれることとなり、結局雲隠れすることとなったのです。

 

 

 

 

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世話になった孔融のため

 

 

 

さて、とんでもない大チョンボを犯して遥か北の遼東(リョウトウ)の地まで雲隠れしていた太史慈ですが……実はこの行動をむしろ高く評価していた人物がいました。

 

 

北海(ホッカイ)の国相をしていた孔融(コウユウ)です。

 

かれはあの孔子の子孫でありながら変わり者が大好きという変人でしたが、太史慈の振る舞いは確かに孔融の胸を射抜いていたのでした。

 

孔融は太史慈がいない間、彼の母に挨拶や贈り物を頻繁に行い、太史慈にコナをかけることに。

 

 

そんなこんなで太史慈が遼東から戻ってきたある時……なんの偶然か、孔融は未曽有の危機に苦しめられていました。

 

黄巾賊の一団が一斉に蜂起し、孔融らを攻撃。圧倒的な数に追いつめられた孔融は、軍営の中に押しとどめられて包囲を受けてしまったのです。

 

 

母は返ってきた太史慈にそのことを伝えると、彼に向けてすさまじい事を言い放ったのです。

 

 

「孔融さまはお前との面識がないにもかかわらず、お前がいない間に大変なお世話をしてくださいました。賊に囲まれて窮地になっている今こそ、報恩の時です。さあ太史慈よ、行きなさい! 行って孔融さまをお救いするのです!」

 

 

母もとんでもない女傑だった。

 

 

かくして太史慈は、「わかったぜ母ちゃん」とばかりに3日休んだ後に即座に出立。

 

徒歩で孔融の包囲されている戦場に向かい、たった一人で夜陰に紛れて包囲網をすり抜け、孔融の元へとたどり着いたのです。

 

 

 

こうして孔融にお目通りした太史慈はさっそく「兵をお貸しください」と出撃を提言しますが、孔融からは危険だからと許可されず、仕方なく援軍を待つことに。

 

しかし何日待っても援軍は来ず、そうこうしている間にもどんどん敵軍の包囲が厳重になっていきました。

 

 

 

 

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太史慈の本領

 

 

 

 

完全に打つ手が亡くなった孔融は、当時近隣の平原(ヘイゲン)で国相をしていた劉備(リュウビ)へ救援要請を送ることを決めたのです。

 

……が、すでに包囲網は完成しており、とてもではありませんがすり抜けられる余裕はありませんでした。

 

 

こうして救援要請の使者に誰もが出ようとしない中、太史慈はその危険な役割に立候補。

 

孔融は「気持ちはありがたいが、こうも包囲されたんじゃ無理じゃないかな?」と難色を示しましたが、太史慈は儒教にならって以下のように言葉を並べたのです。

 

 

「母はあなた様に大変細やかな気遣いをしてくださって喜んでいます。その母が私をこの場へ駆り立てたのは、何かの役に立つと思っての事。現在人々は包囲を抜けるのは不可能だと言っていますが、これに私まで賛同することはできません。あなた様からの恩義と、母の意に背くことになるからです」

 

 

儒教精神の「忠」と「孝」を前面に出した説得をされては、儒教の本筋を引く孔融は首を縦に振らざるを得ません。

 

結局太史慈を使者として送り出すことに決定したのです。

 

 

 

とはいえ、そのまま無策に出ても無駄死にするのは確実。太史慈の胸中には、相手の隙を突く策があったのです。

 

 

次の日、太史慈はすぐに門を開けて的を抱えた騎兵2人と共に陣の外へ飛び出しました。

 

敵はこれに対して「何事か」と身構えますが、太史慈は敵人に突っ込むことはせず、安全な場所に的を置かせ、唐突に弓術を披露。的を全て百発百中の腕前で見事に射抜き、その後何事もなく戻っていきました。

 

その次の日も、また同じように弓術を披露し、一通り終わるとすぐに陣の中に戻っていったのです。

 

 

そして3日目。いつも通り太史慈が弓を携えて陣の外に出た時には、すでに警戒する敵兵はおらず、みな立ち上がることもしなかったのです。

 

 

それを確認した太史慈は、突如として馬に鞭をくれ、全力疾走。

 

「これまでの弓術披露は油断を誘う策だった」

 

そう気づいたときにはすでに遅く、太史慈は敵陣の中を一気に駆け抜けます。途中で追いすがった者も自慢の弓でことごとく射倒し、突然の事に恐慌状態に陥った賊軍を完全にやり過ごし、太史慈は包囲を突破したのでした。

 

 

 

そして劉備の元に駆けつけると事の次第を説明し、劉備から3千の兵を借り受けました。

 

そして3千を率いて黄巾軍に攻撃を仕掛けると、予想外の事に算を乱した敵軍は一気に離散。

 

 

無事救われた孔融は絶望的な状況を一気に覆した太史慈を「若き友」と呼び、帰った後に母にも「無事に恩返しができたこと、うれしく思います」と功績を褒め称えられたのです。

 

 

……が、どういうわけか太史慈は孔融には仕えず、その後江東へと下っていくことになります。

 

この辺りの理由は、本人のみぞ知ると言ったところか……

 

 

 

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本当にこの人の逸話は……なんかもう。

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