【張昭伝2】激闘! 張昭VS孫権!!


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さて、張昭の逸話のある種本題に入りましょうか。

 

 

彼の逸話で特に大きなものと言えば、孫権との滅茶苦茶な諍い……もとい親子喧嘩。これのせいで、張昭は他の一流文官とも一線を画した人気(またの名を悪目立ち)を博すことになります。

 

 

何だかんだ、孫権張昭は何かにつけて争っているイメージがありますが……今回はその中でも特に張昭伝に載っている大きな話を取り上げていきましょう。

 

 

 

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第1ラウンド:赤壁の戦い

 

 

 

曹操は赤壁の戦いよりも前、孫権に宣戦布告の手紙を送っています。

 

 

「江東の地で、孫将軍と虎狩りがしたい」

 

 

一見するとプライベートのお誘いみたいな一文ですが、江東は孫権の領地。さらに虎は孫権という意味も込められており、要は「お前を狩ってくれるわ」的な意味合い、一戦やろうぜという脅迫文だったわけですね。

 

 

これを知った孫権軍は震え上がり、名士はじめほとんどの者が、孫権に降伏を訴えかけました。

 

その降伏派の筆頭格が、張昭だったのです。

 

 

降伏するか戦うかの議論では曹操と戦おうとしたのは孫権魯粛のみ、しかも魯粛は序列が低く孫権も名士の前では下手な事が言えないと、完全に降伏派に意見が偏っていました。

 

 

結局、孫権周瑜を議論に呼んだことでようやく形勢は逆転。あとは多くの方が知る通りの展開となったわけですが……こうなると寝覚めが悪いのは降伏を大々的に唱えた名士層。

 

張昭への風当たりもきつくなり始めたようで、突拍子も無い事ばかりを言っている嫌いな魯粛孫権が重用し、張昭が「魯粛は危険です」と訴えかけても説得力が無くなってしまい、そのまま魯粛孫権軍の柱石として動くようになってしまいました。

 

 

 

『公表伝』ではこの後追い打ちを食らった張昭の姿が書かれていますね。

 

時代は飛んで孫権が呉帝に即位した時。孫権周瑜らを功臣として褒め称えた後、張昭に対しては「あんたの言う事をもし聞いてたら、今頃俺は乞食だ」と公衆の面前で言い放ち、張昭は大恥をかかされてしまったとあります。

 

哀れ……

 

 

 

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第二ラウンド:虎狩り

 

 

 

孫権は狩りが大好きで、しばしば野山に虎狩りに出かけていました。

 

そんなある日、孫権はいつもの通り虎に矢を射かけましたが、その時ばかりは虎も逆に襲い掛かってきて、孫権の馬の鞍にしがみつくというちょっとした事件になったのです。

 

 

これを見た張昭は顔を真っ赤にして孫権の前に進み出て、顔を真っ赤にしてお説教。

 

 

「君主というのは数多の英雄賢才を操る者であり、野山を駆けて獣と戦う者だとは聞いたことがありません。万一の事があったらどうなさるおつもりですか!」

 

 

 

孫権はこの正論に対して「面目ない」と謝罪。これでようやく狩りをやめるのかと思いきや……今度は狩猟に使うための装甲車を作り出し、それに乗って狩りを楽しむようになりましたとさ。

 

しかも装甲車は接近戦には不向きなようで、結局虎が襲い掛かってきた時にはみずから相手をするという有り様。

 

 

張昭はこれも強く諫めましたが、孫権は笑ってばかりで答えなかったそうな。

 

 

 

 

第3ラウンド:酒宴の席

 

 

 

今度は酒の席での出来事。

 

孫権は酒乱として知られており、酒が入ると妙なスイッチが入ってしまう人でした。

 

 

その時の宴会でも、酔いつぶれた部下にぶっかけて「楼から転げ落ちるまで飲むぞ! 途中離脱は許さん!」と酒乱モード全開のありさまだったのです。

 

さて、そんな孫権の様子を見て張昭は憮然とし、最後には何も言わずに途中で帰ろうとしました。

 

 

当然、孫権はそれを許さず、「みんなで楽しもうとしてるだけだ。何が気に入らないんだよ」と苛立った様子で張昭に問い詰めます。

 

これに対し、張昭は見事なカウンターを炸裂。

 

 

「殷王朝の紂王(チュウオウ:酒池肉林の語源になった人)もそんな感じでしたな。彼もみんなで楽しもうとああいう宴を開いたのであって、悪事をしようと思ってしたわけではありますまい」

 

 

この一言で一気に酒が抜け、正気に戻った孫権。歴代でも有名な暴君と先ほどまでの自分の姿を照らし合わせ、「似た者同士じゃねえか」と口をつぐんで反省。すぐに宴会をお開きにしたのでした。

 

 

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第4ラウンド:蜀からの使者

 

 

 

このように厳しい事ばかり言う張昭は、フリーダムな孫権とは凸凹コンビとも言うべき間柄で、ある時ついに孫権の琴線に触れ、とうとう謹慎処分を食らってしまいました。

 

 

そんな事件がった少し後、同盟国の蜀から使者が孫権の元に到着。蜀の使者は祖国のすばらしさを次々と述べ、お国自慢を展開。

 

水面下での外交戦を仕掛けてきたわけなのですが……なんと悲しいかな、孫権の群臣らは蜀の使者の言葉に対し、口をつぐんでだんまり。誰一人として使者に言い返すこともせず、蜀との外交合戦は完敗に終わってしまったのでした。

 

 

この体たらくを終始玉座で見ていた孫権は、大いに落胆。

 

 

「こんな時、張昭がいたら……」

 

 

結局孫権張昭との和解を決め、翌日には早速張昭に使者を出し、両者はすぐに体面。

 

張昭は席を立って頭を下げ、孫権はひざまずいて謝罪。結局両者の確執は痛み分けに終わったのですが……そんな折に張昭は一言。

 

 

「心新たに、また諫言をしていきます。ご機嫌取りなど致しませんので、なにとぞよしなに」

 

 

張昭の大事さを痛感した孫権は、この言葉に対して謝罪を返すしかありませんでした。

 

 

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ファイナルラウンド:公孫淵事件

 

 

 

呉からはるか離れた北端にある遼東は、公孫淵(コウソンエン)なる人物が支配していました。彼は元々魏に臣従していたのですが……ある時、孫権に帰順したいという旨を伝えてきたのです。

 

これに対し、孫権は公孫淵を手なずけるため使者を送り、燕王の位を授けようと考えました。

 

 

しかし、これに反対したのが張昭

 

 

「公孫淵は魏に背きたいだけで、こちらに味方したいわけではありません。心変わりでもしたら、使者は返ってくることはありますまい」

 

 

孫権はこれに対していろいろ反論しますが、対して張昭もますます強固に反対を主張するばかり。ついに頭に来た孫権は剣に手をかけ激怒。

 

 

「お前のその態度が国をダメにするんだよ!!」

 

 

孫権の一方的な感情論に張昭も目に涙を浮かべ、

 

「ジジイが余計なことを口にするのも、あなたの母君にすべて託されたからこそなのですぞ!」

 

 

と思いのたけを爆発させました。

 

この時、張昭の真心に触れた孫権は心を打たれたのか、刀を投げ出して玉座から駆け降り、張昭と向かい合って二人して涙。

 

 

この時孫権51歳。張昭に至っては77歳。いい歳こいたおっさんとじーさんはお互い向かい合って大泣きし、この事件は幕を閉じた……かに思われました。

 

 

 

 

今回の喧嘩はこれでは終わらぬ

 

 

 

 

後日、あれだけの事態になったにもかかわらず、孫権は結局公孫淵に使者を派遣。しかも心変わりした公孫淵によって使者は殺されて魏への手土産にされるという最悪の結末を迎えてしまったのです。

 

孫権が結局使者を送ったのを知った張昭は、とうとうブチギレて職務放棄。家に閉じこもって出なくなってしまいます。

 

 

 

いつもならすぐ謝罪する孫権も、今回は簡単には引き下がらず。

 

 

「ああそうかい。それなら一生閉じこもっとけボケ老人!」

 

 

と、そういわんばかりに、張昭の家の前に土塁を築いて完全に閉じ込めてしまったのです。

 

 

これを見た張昭も、対抗して家の内側にも土を盛って門を封鎖ガキかお前ら

 

 

 

結局、公孫淵調略の結果は先述の通り。孫権の元にも、使者が公孫淵によって殺されたのを知り、自らの誤りを思い知らされたのでした。

 

 

孫権はさっそく、使者を送って張昭に詫びを入れます。が……

 

 

「知るかいボケ」

 

 

 

何度使者を送っても張昭は姿を見せず。自ら面会を求めても、「病気でお会いできません」と完全拒絶される有様。

 

 

 

これによってふたたび怒りが限界に達した孫権は、なんとも恐ろしい最終手段を行使。

 

なんと、張昭の家に放火したのです。

 

 

 

さすがに火事になれば張昭も出てくるだろうと思った孫権ですが、張昭は自分の家の門が燃えてもますます固く戸を閉じるばかり

 

 

無駄だと悟った孫権は慌てて火を消させ、それからは門前に居座って持久戦を展開。

 

 

ここまでされてはと、ようやく張昭は息子らに連れられて姿を現し、孫権が深く自責の念に駆られているのを見て、ようやく朝会に復帰するようになったのでした。

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