【張昭伝1】孫権の後見人にしてエリート官僚


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徐州の傑物

 

 

 

張昭の若かりし日は典型的な「好まれる官僚タイプ」だったようで、勤勉な学問好きで博学。儒教社会において理想の人物像として、徐州でもかなり高い名声を誇っていました。

 

 

当然、理想の逸材とあっては社会が放っておくはずもありません。20歳前後の時には孝廉(コウレン:地元推挙枠)に推挙され栄達の道が開かれます。……が、張昭はこれに応じず、結局中央官僚になろうとはしなかったのです。

 

というのも、当時の都は混迷の極み。下手に中央に出ても展望どころか我が身すらも危ういと踏んだのかもしれませんね。

 

 

 

なお、当時徐州で幅を利かせていた大物として、張昭と一緒に王朗(オウロウ)、趙昱(チョウイク)なる人物の名も挙がっていますが……このうち王朗と2人で「旧君の諱を避ける」という議題で盛大に議論をかわし、『風俗通』なる書物に内容が残るほどの素晴らしい討論を交わしたとか。

 

 

そんなこんなで地元の有名人としてしばらく居続けた張昭でしたが、徐州に割拠していた群雄・陶謙(トウケン)に目をつけられると、その立場にも暗雲が立ち込めます。

 

 

陶謙は張昭の噂を聞いて「こいつは使える」と判断し、張昭に対して中央宦官へのレールを用意してやりますが……すでに朝廷にお仕えする気がなかった張昭はこれを拒否。

 

これによって陶謙の不信を買った張昭は、なんと投獄されてしまいます。

 

 

結局、自分と名声を同じくする趙昱によって助けられますが……すでに張昭の居場所は徐州にはほとんどなかったのかもしれません。

 

 

 

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孫策の元へ

 

 

 

そんな折、徐州でも戦禍が激しくなっていき、戦いを嫌った名士たちもどんどん徐州を離れ、疎開していくという様相を呈してきました。張昭も、そんな人たちと共に徐州から脱出。

 

 

孫策(ソンサク)なる人物が新たに軍を興すと、参謀役として請われる形で出仕。長史(チョウリ)・撫軍中郎将(ブグンチュウロウショウ)として孫策軍に召し抱えられ、彼とはまるで旧友にも等しいような厚遇を受けることとなったのです。

 

 

この時、張昭は北方に残った名士らとまだ文通をしていました。しかも、向こうから送られる内容は張昭に対する賛辞ばかり。

 

「黙っていれば叛逆を怪しまれる。かといって見せびらかしても自慢にしかならない」

 

そう悩んでいたところ、どこからか孫策の小耳に情報が行き届き、それを聞いた孫策張昭を伝説級の宰相・管仲になぞらえ、「これだけの大物がうちにいるんだから、俺は天下も取れる」と言い放ったとか。

 

 

 

こうして自身の主を得た張昭孫策軍参謀として、自身と並び称された張紘(チョウコウ)らと共に参謀兼内政官として力を尽くしますが……その時は長く続かず、建安5年(200)、孫策は刺客に襲われて死去。

 

臨終の際に「駄目そうなら、最悪あなたが軍を引き継いでも構わない」と張昭に述べたうえで、弟・孫権(ソンケン)を後継者に指名。張昭孫権の後見人として、以後あらゆる意味で活躍を残すようになるのです。

 

 

 

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孫権との折り合いは……

 

 

 

さて、こうして孫権の後見人として働くこととなった張昭は、まず孫策の就いていた会稽(カイケイ)太守の役職を孫権に引き継がせる手続きを完了。そして、周囲に「跡取りは孫権」と大々的に触れ回り、反逆の芽を可能な限り摘み取ります。

 

その後、兄の死にショックを隠し切れない孫権の尻を叩きを叱咤激励し、馬に乗せて兵を整え、出陣させたのです。これにより、いよいよ周囲の家臣は孫権を次の当主と認識したのでした。

 

 

それからは孫策の時と変わりない業務についていた張昭ですが、孫権が車騎将軍(シャキショウグン)に任命されると、張昭も軍師に就任。常に孫権の補佐役的な立ち位置にいた張昭ですが……実は孫権との折り合いはよろしいものではなかったようです。

 

 

というのも、張昭は言ってしまえば清廉潔白で厳格な堅物。対して孫権は自由奔放で滅茶苦茶なところがあり、両者は何かと言い争いになることが多かったのです。

 

 

 

それでも張昭の忠誠は変わらず、黄初2年(221)に魏から「孫権を呉王に任ずる」という使者が来た時に、その使者の尊大な態度を咎めるなど要所要所で政治家としてのファインプレーを見せるのですが……結局孫権との溝は埋まらず。

 

 

周囲から「丞相(ジョウショウ)にはこの人を!」と強く勧められることが何度かありましたが、いずれも孫権が首を縦に振らず、結局は最大級の重臣でありながら丞相という大役を受けることはありませんでした。

 

 

 

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半分隠居の身なれど

 

 

 

孫権からの待遇には張昭自身もどこか思うところがあったのか、それとも老いか……孫権が帝に即位すると受けていた役職を全て返上。病気がちであることを理由に隠居を願い出ます。

 

しかし、孫権はそれを許さず、輔国将軍(ホコクショウグン)という張昭のための特別の席次を用意。朝廷に顔を出すこと自体は稀という半分隠居のような立ち位置になりましたが、それでもかなり高い序列に配されたのです。

 

 

 

また、張昭自身も完璧主義な性格は相変わらず。厳畯(ゲンシュン)なる人物が孫権に言われて幼い頃に読んだ書物の暗誦を行っている途中に割って入り、「物の道理がわかっとらんな」と自ら出しゃばり必要と思える部分だけを抽出して暗誦を開始。周囲を感嘆させたとか。

 

 

いっぽう、半隠居状態で暇な時間もできたため、家に閉じこもって著作に励むなど、プライベートでも充実した時間を過ごしていたようです。

 

 

 

そんな折、公孫淵(コウソンエン)の独立支援をどうするかで孫権とド派手に揉めたり(後述)と命懸けの漫才を行ったりもしていますが、老後は比較的平穏な生活をしていたのではないでしょうか。

 

 

 

そんな呉の長老である張昭も、嘉禾5年(236)には病没。御年81歳の長寿でした。簡素にするようにとの遺言通りに葬式は行われ、これには孫権も参加したと言われています。

 

諡は文侯とされ、後は子の張承(チョウショウ)が継ぐことになりました。

 

 

 

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人物像

 

 

 

陳寿の評には、以下のようにあります。

 

 

張昭の容貌は謹厳で堂々としており、孫権もつねづね「彼と話すときはいい加減なことは言えない」と言っていた。国中が彼を畏怖していたのである。

 

 

おおよそ、呉のお父さん的存在として君臨していたことが伺えますね。

 

まあ、そのお父さん的な性格が、孫権との命を張ったコントや漫才に繋がってしまうわけですが……。

 

 

 

何だかんだ、結局孫権とはいいコンビだったのかもしれませんね。たまにアクセルをフルスロットルしてしまう孫権に対し、まさに急ブレーキをかける役割を担った張昭

 

名士層とのパワーバランスか本人の希望か孫権自身の器の狭さか、結局丞相になることはありませんでしたが……それでも両者の間には一種の信頼関係があったのではないかと思われます。

 

 

 

出会うたびに子供もびっくりの壮絶な親子喧嘩を行う頑固親父と反抗息子。意外と、孫権との関係はそんなところで、折り合いはばっちりとれていたのかもしれません。

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