【董昭伝2】晩年はボヤキの達人


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【董昭伝2】晩年はボヤキの達人

 

 

 

 

 

曹丕の代でも相変わらず

 

 

 

 

曹操が亡くなり曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐと、董昭は将作大匠(ショウサクタイショウ:宮殿や宗廟といった建造物の造営責任者)、さらに曹丕の帝位即位に際して大鴻臚(ダイコウロ:朝廷に臣従した異民族らの管理を担当。大臣クラス)となり、爵位も右郷侯(ウキョウコウ)にまで上がりました。

 

黄初元年(221)には、弟が自身の領地の一部を分け与えられて関内侯(カンダイコウ)に封ぜられ、董昭自身も侍中(ジチュウ:帝の側近として、アレコレ助言する。その気があれば意のままに帝を操縦できるアブナイ職)にまで上り詰めました。

 

 

そして黄初3年(222)に行われた大規模な呉征伐では、一方面の総大将である曹休(ソウキュウ)が「長江を渡って敵を攻撃したい」という旨の上奏文を提出してきました。

 

 

これに対して、董昭は、

 

「川を渡るのは非常に危険な行動であり、敗色濃厚な作戦です。曹休はそれをわかった上で進言していますが、その下に控える将軍たちは、すでに高官であり、その地位を守るための態勢に入っています。曹休がその気になっても、周囲の将軍たちがその危険を冒そうとはしません。

 

まあ曹休の独断でそのような判断を下しても、他が着いてこずに意図は容易に崩れるでしょう。が、心配事は陛下のご命令に対しても、同じようなことが起きてしまう可能性があることです」

 

 

と所感を述べて曹休の考えが通らないことを懸念します。

 

 

かくして、後に突然の暴風で呉軍の陣営に勝手に流れ着き、それを一気に敗走させて優勢に立ちましたが……この時には曹丕や曹休らの願い通りにはいかず、将軍たちが出撃のリスクを恐れて動かないうちに機を逸し、敵援軍の参入を許して作戦は失敗してしまいました。

 

 

 

 

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さらに別方面で夏侯尚(カコウショウ)が江陵(コウリョウ)の城を風前の灯火と言えるところまで追い込んだ際にも、夏侯尚の、後退を考えない攻め特化の作戦を見て懸念を抱き、ふたたび曹丕に上奏します。

 

 

「夏侯尚は川を半端にわたり、中州にて一本だけ浮き橋を立てて包囲をしていますな。これでは攻めはよいでしょうが、相手の攻撃に際して急所を狙われては、撤退もままなりますまい。

 

そもそも人は後退を嫌い前進を好みますが、前へと進む際も後退の危険は頭に入れておくのが一流の将軍でしょう。

 

もしも中州を渡す橋が壊されてしまっては、取り残された味方は敵に降るしかなくなります。

 

 

それに、長江の水かさは増えていっているとか。もしものこともございます。ここは攻めばかりでなくもしもの事を考え、味方の戦力温存に尽くすべきだと思うのですが……」

 

 

この董昭のボヤキにハッとして、曹丕はすぐに夏侯尚に勅使を伝達。中州から引き上げるように促しました。

 

 

勅使を受けた夏侯尚はすぐに中州からの撤退を開始しますが、橋が一本しかないために撤退は難儀を極め、二手に分かれて執拗に行われた敵の妨害を掻い潜って、なんとか撤退に成功。

 

この頃、敵将の潘璋(ハンショウ)らは橋を焼き払うために火罠を上流から流そうとして実行間近だったと言われてます。

 

 

夏侯尚らが布陣していた中州が長江の突如増水のため水没したのは、撤退から10日後のことでした。もしも董昭のボヤキがなければ、夏侯尚の軍勢は退路を失い、さらには突然の水没に流されて危かったでしょう。

 

 

曹丕は董昭のこの軍略に、「過去の名軍師である張良、陳平を見ているようだ」と絶賛し、その軍略に敬意を表したとか。

 

 

 

 

黄初5年(224)には領土を国替えして成都郷侯(セイトキョウコウ)となり、大常(タイジョウ:儀礼や儀式の総責任者)、光禄大夫(コウロクタイフ:顧問対応とあるが、決まった仕事はない。光禄勲)、さらに給事中(キュウジチュウ:これも顧問対応職)へと転任。

 

 

その後曹丕の東征に付き従い、黄初7年(226)には太僕(タイボク:帝の天子行幸や、軍需、交通通信といった他分野を司る大臣)として中央に帰京。

 

 

同年曹丕が死去し、その子供の曹叡(ソウエイ)が跡を継ぐと、爵位も楽平侯(ラクヘイコウ)にまで進んで領地も加増。

 

 

太和4年(230)には司徒(シト:民事全般を取り仕切る大臣)の代行として動き、2年後の太和6年(232)には正式に司徒に就任しました。

 

 

 

こうして曹家3代の行く末を見守り、その繁栄のために生きた董昭でしたが、青龍4年(236)に、ついにその長い人生を完走。享年81歳。

 

諡は定侯(テイコウ)とされ、跡を継いだ息子の董冑(トウチュウ)も高官を歴任しました。

 

 

 

 

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人物・評価

 

 

 

董昭は軍事だけでなく、政治や民事、果ては人物眼まであらゆる部分に精通した策謀家でした。

 

この手の人物は同じ知略家でも、何かしら得意不得意はあるものですが……董昭の場合、まさにマルチな活躍を示す、オールマイティな活躍場所を選ばない人物だったと言ってもよいでしょう。

 

 

の割に、これまた偉く影が薄い……。

 

 

やはり、曹操の実権強化のために強固な主張をして、その分周囲の恨みを引き受けて穢れ役を買って出たのが主な要因でしょうか。

 

 

事実として、漢室に忠誠を使った蘇則(ソソク)らには大変嫌われており、国家という大きな物に忠義を示すをよしとする人物らからは、すこぶる受けが悪いです。

 

 

陳寿の評も、荀彧や程昱らと共に

 

屈指の智謀の士であったが、荀彧や荀攸らと比べて徳業はなかった

 

と記されており、それがもとで「こざかしいだけの小悪党」として登場することも多いです。

 

 

彼の早めの名誉回復に期待!

 

 

 

最後に、最晩年の、老骨の嘆きともひそかな儒教信奉者の憂いともとれる逸話を紹介し、董昭の解説を終えたいと思います。

 

 

司徒となった董昭には、一つの心配事があった。

 

それは、人材の小人物、軽薄化である。

 

 

昔は不正を許さず世をよくしたいという一心で、そういった連中が騒ぎを起こして死刑になったが、今では同類の面々が幅を利かせ、官吏も怖がって刑罰を履行できていない。

 

 

「昨今の若者は親孝行も上への敬意もなっておらず、清廉さも上品さもない。徒党を組んで仲間ばかりを押し上げ、自身が気に食わない者は誹謗中傷の嵐で追い落とすばかりではないか。

 

聞くところによると、『時代は仲間づくりだ。自分たちを理解しない連中には灸をすえて、従順にしてやればそれでよいのだ』と言い合うばかり。
しかもなんだ。自分の子分を朝廷に忍ばせてパイプ作りに励み、栄達の道ばかりを探っているではないか」

 

 

そう思った董昭は、すかさず曹叡に思いの丈を上奏。

 

 

曹叡も思うところがあったのか、董昭のこの上奏を聞き入れ、諸葛誕(ショカツタン)や鄧颺(トウヨウ)らを即座に罷免した。

 

 

 

今も昔も変わらないと言いますか……平和になったら、こういう輩が幅を利かせて強くなりますよね。

 

曰く、「それが正義だ」とかね、もう頭おかしいんじゃないかと……

 

 

と、愚痴や不満を垂らすと長くなるのでこのくらいにして……

 

 

 

人の心理を利用して罠に嵌める董昭ですが、それはあくまで敵に対してだけ見せる顔。

 

実際の董昭は、策士特有の薄汚さだけでなく、ある種の一途さのようなものも持ち合わせていたのかもしれませんね。

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