姜維


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【姜維伝1】諸葛亮曰く「逸材!」

 

 

 

 

蜀へと降伏

 

 

 

姜維の父親は、異民族との戦いの中で身を挺して味方を庇い殉職。それによって姜維は幼くして父を失い、母と共に過ごしていました。

 

しかし父がそこそこの位にいたためか暮らしはそこまで苦しいわけではなかったようで、鄭玄(テイゲン)の元で学問を習い、そのまま魏の役人として州の従事(ジュウジ:トップの副官)にまで出世。

 

さらにその後、父の戦死という功もあり、地元である天水郡の軍事を任されるようになったのです。

 

 

こうして魏の地方幹部候補としての道を着々と歩んでいた姜維でしたが、蜀の建興12年(228)に諸葛亮(ショカツリョウ)による北伐が開始されたことでその安定した運命にほころびが生じ始めます。

 

 

姜維は同じく天水郡の幹部の役人である梁緒(リョウショ)、尹賞(インショウ)、梁虔(リョウケン)らと共に偵察を行っていたのですが、この頃周辺の魏領が次々と蜀に内応していったのもあって、天水太守が疑心暗鬼に取り付かれていました。

 

最終的に姜維らも敵に寝返ったのではと疑い始めた太守は、やがて政庁を放棄して上邽(ジョウケイ)に逃走。城に立てこもり、後に追いかけてきた姜維らも無視して締め出してしまったのです。

 

やむを得ず姜維らは魏軍側に残った冀(キ)県に向かいましたが、ここでも同様の反応をされ、ついに姜維らは孤立無援に。結局、やむを得ず諸葛亮に降伏。後に蜀軍が敗北したことにより彼について蜀に向かう事になり、母とは離れ離れになってしまいました。

 

 

しかし、蜀につくと、諸葛亮は姜維を高く評価し、27の若さにもかかわらず奉義将軍(ホウギショウグン)に昇進。当陽亭侯(トウヨウテイコウ)の爵位を与えられることになりました。

 

また、諸葛亮は彼の才覚を見て「馬良(バリョウ)たちをも凌駕する、涼州最高の逸材」と絶賛したとか。

 

 

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蜀の中心人物へ

 

 

 

こうして蜀の将として一旗揚げることになった姜維は、後に征西将軍(セイセイショウグン)・中監軍(チュウカングン:軍の監督役)にまで昇進。

 

諸葛亮の北伐にも同道しますが、建興12年(234)に諸葛亮が死去。蜀の未来に陰りがさし、大きく人事も動きます。

 

 

姜維は輔漢将軍(ホカンショウグン)・右監軍(ウカングン)の位を改めて授けられ、平譲侯(ヘイジョウコウ)に爵位が上がりました。

 

 

後、延煕元年(238)には蒋琬(ショウエン)と共に最前線基地の漢中に移り、蒋琬の大司馬(ダイシバ:軍事のトップ・国防長官的な立ち位置)に昇進すると彼の副官となって支えることに。

 

この時姜維は一軍を任される事となり、たびたび西方から魏の領地へと侵入。延煕6年(243)には鎮西大将軍(チンセイダイショウグン)、涼州刺史(リョウシュウシシ)として実質的に蜀の西方侵攻の責任者に昇格。

 

さらに蒋琬が亡くなった翌年の延煕10年(247)になると衛将軍(エイショウグン)となり、宰相職である録尚書事(ロクショウショジ)を上司の費禕(ヒイ)と二人で担当することになり、姜維は事実上蜀の中心人物の一人にまでなったのです。

 

 

この年、異民族を制圧するとともに魏将・郭淮(カクワイ)らと隴西(ロウセイ)郡の洮水(トウスイ)西部で会戦。これによって異民族の王の一部が蜀側に味方することになり、彼らを蜀の領内に連れていき、土地を与えて安住させることにしました。

 

しかし、それ以外の北伐ではあまり芳しい成果は上げられず、延煕11年(248)に郭淮と再戦すると罠に嵌められて撤退。翌年にも計略を鄧艾(トウガイ)に見破られることで勝利を得られず撤退しています。

 

 

これらの事から、大権を持ちながらも費禕からは警戒され、作戦行動のたびに彼から制約を課せられて思い通りに動けず、常に兵はわずか1万ほどが与えられるだけに留まりました。

 

 

『漢晋春秋』では、費禕からは「諸葛亮ですらできなかったことが我々にできるとも思えん。それどころか我らは小国。一度の敗戦が命取りとなる。今は人材の育成に力を注ぎ、北伐をすべきではない」と諭されたとか。

 

 

 

 

枷より解き放たれた北伐マン

 

 

 

建興16年(253)、費禕が突如として暗殺され、内政担当のトップは北伐容認派の陳祗(チンシ)に変更。姜維の行動を制限する枷がとうとう外れました。

 

 

その夏、さっそく姜維は数万の軍を率いて北伐を再開。南安(ナンアン)を包囲しましたが、援軍として駆けつけた陳泰(チンタイ)らが間近に迫ったため、兵糧不足もあって撤退。

 

 

また、翌年には都督(トトク)として内外の軍事を一任され、再び隴西に進軍。狄道(テキドウ)県長の李簡(リカン)が蜀に降伏したのもあり、防衛軍を率いてきた部将の除質(ジョシツ)を討ち取る事に成功。そのまま勝ちに乗じて住民を拉致し、蜀に連れて帰って移民させることに成功します。

 

 

さらに翌年の延煕18年(255)には再び狄道に入り、敵将である王経(オウケイ)の軍を大破。延べ五桁の死者を出すほどの大打撃を与え、実質的に軍としての機能停止追いやる事に成功しました。

 

ここでも勝ちに乗って壊滅状態の王経軍がこもる狄道を包囲しますがまたしても陳泰に邪魔され撤退。

 

 

さらに次の年になると、再び北伐を開始。しかしこの頃から暗雲が立ち込め始めたようで、なんと敵中で落ち合うはずの約束になっていた将軍の胡済(コサイ/コセイ)が姜維を裏切り約束を反故。

 

さらにやってきた鄧艾の軍勢によって大敗北を喫し、甚大な被害を受けたのでした。

 

無理をして毎年のように北伐をつづけた恨みと大敗北という結果から姜維を恨む人物が多く表れるようになり、領内は騒乱が頻発。姜維はみずから後将軍(コウショウグンン)に降格することでケジメとしましたが、もはや疲れ果ててバラバラになりつつある蜀を取りまとめられる人物はどこにもいませんでした。

 

 

それでも翌年の建興20年(257)には、東方の揚州北部で諸葛誕(ショカツタン)が反乱を起こしたのに乗じ、再び北伐を敢行。手薄となった魏西部の守りに付け込んで多数の兵士を送り込みましたが、守備に当たっていた鄧艾と司馬望(シバボウ)によって阻止。

 

姜維は圧倒的優位を恃んで敵軍を決戦場に引きずり込もうとしますが鄧艾らは挑発に一切乗らず、そうこうしているうちに諸葛誕の反乱は鎮圧。姜維の北伐も失敗に終わってしまったのでした。

 

 

その後、再び姜維は大将軍に復職することとなったのですが……すでに蜀は北伐どころでないほどに荒廃、混乱していました。

 

姜維は漢中の防衛方法を変更し、従来の「撃退」ではなく「敵を疲れさせ殲滅」に主眼を置いた防御陣に変更。周囲に関所を設けて防衛時の攻撃力を強化しました。

 

 

このように姜維はまだあきらめてはいませんでしたが……すでに蜀は風前の灯。姜維を排除しようとする声も蜀には多く出るようになり、後ろ盾を蜀内に持たない姜維は徐々に孤立していくこととなったのです。

 

 

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蜀の滅亡

 

 

景耀5年(262)、ついに姜維は北伐を再開しますが、ここでも鄧艾に阻まれて敗北。しかも孤立した姜維を排除しようという声も非常に大きくなっており、姜維の立場も危険な物となりつつありました。

 

特に時期こそ不明ですが、宦官の黄皓(コウコウ)が姜維を罷免して自分の息がかかった閻宇(エンウ)なる人物と交代させようと目論んで、周囲もそれに賛同することがあったほどとか。

 

 

こうして蜀内部は分裂、姜維の北伐による国土の疲弊も重なって、景耀6年(263)、ついに魏軍による蜀への大攻勢を引き起こしてしまうことになるのでした。

 

魏の攻撃を察知した姜維は、蜀帝劉禅(リュウゼン)に援軍を要請。しかし、これも「占いで魏が来ないと出たから絶対来ません」と謎の主張を繰り返す黄皓によって沙汰止みになってしまいます。

 

 

一応黄皓の擁護をしておきますが、この時期における神のお告げや占いというのは現代から想像できる以上に重く用いられており、蜀の重臣にも夢占いの結果、大身になったり身を滅ぼした人物もいます。

 

 

同年5月、ついに姜維の懸念通り、魏軍は大挙して蜀へと侵攻。ようやく状況を察知した蜀の朝廷から援軍が送られ、蜀軍は緊急態勢をとって、蜀軍最後の戦いが始まります。

 

姜維は援軍がなかなか来ずに体制を整えられないこともあり、鄧艾を迎撃するも敗北。前線を捨てて剣閣(ケンカク)に立てこもる事になります。

 

姜維は敵将・鍾会(ショウカイ)からの降伏勧告を無視し、あくまで徹底抗戦。鍾会軍の足を完全に封殺して、一時期は彼に撤退すら考えさせるほどに粘りました。

 

 

……が、ここでもやってくれたのが鄧艾。彼はなんと険しい山中を超え、少数軽装の兵だけを率い蜀の都・成都(セイト)を急襲。成都防衛の主力部隊を文字通り気合いで粉砕し、その防衛力の大半を奪い取ってしまったのです。

 

 

事ここにきて、蜀帝・劉禅は魏に降伏。主力部隊壊滅により様々な憶測や風聞が飛び交う中、姜維は戦をやめるようにとの勅令を受け取り、ついに降伏を決めたのです。

 

この時に将兵らは刀で石を叩き斬るほど悔しがったとされています。

 

 

『晋紀』によれば、この時出迎えた鍾会に「遅かったな」と言われると、姜維は泣きながら「まだ早すぎると思っています」と返し、彼を感心させたとか。

 

真偽のほどはともかくとして、功名を立てるために蜀で戦ってきた姜維にとっては、確かに無念だったと言えるでしょう。

 

 

 

かくして蜀の戦いは幕を閉じ、その将兵らは魏に帰順。

 

しかし、姜維の戦いはまだ終わっておらず、この後にもう一波乱、魏に対して引き起こすことになります。

 

 

 

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