姜維


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【姜維伝2】英雄?奸賊?

 

 

 

 

野心の終焉

 

 

 

姜維は元々自身の能力には大いに自信があり、実際にその自信に見合った軍事的才覚と、それらを踏まえた上での「並外れた功名を立てる」という大きな野心を秘めていました。

 

蜀の滅亡をその目で確認してもなお姜維の野心は収まるどころかなお燃え続け、ある男に対して接近。魏との最終決戦に臨むため、上手く取り入る事にしたのです。

 

 

その男とは、蜀滅亡の立役者の一人である鍾会。

 

鍾会もまた並外れた野心家であり、その野望はやもすれば姜維以上。功名ではなく天下を取る事に野望を向ける、一介の梟雄だったのです。

 

鍾会は姜維に対してシンパシーを感じたのか、蜀からの降伏者を厚遇する中、姜維に対しては特に親しく付き合い、交友を深めていきました。

 

 

『漢晋春秋』及び『華陽国志』では、この時姜維は鍾会の野心を看破。彼をそそのかすことで謀反を誘発したことになっています。

 

実際に鍾会は魏国内でも警戒されるほどに野心深く、蜀滅亡後に彼の側にいた姜維が鍾会の野心を見抜いたとしても、別段おかしい話ではありません。

 

 

こうして姜維ら蜀の降将と仲良くなっていった鍾会は、ついに讒言によって名将ながら嫌われ者であった鄧艾を処刑に追い込み、蜀の地に入ると魏に反逆。魏の官僚たちを嘘で呼び寄せ幽閉し、成都にて挙兵したのです。

 

 

が、満を持して引き起こした反乱にもかかわらず、肝心な兵士たちが鍾会の挙兵に反発。天下の形成はすでに魏に傾いており、兵卒からすれば無謀なクーデターに突き合わされているに過ぎなかったのです。

 

 

姜維は反乱兵の鎮圧のため戦場に出たものの、すでに鍾会軍は彼の側近を残して他になく、多勢に無勢。孤軍奮闘し5、6人の敵兵を討ち取ったものの、結局雲霞のごとき兵士の群れに揉みつぶされて戦死。

 

後に家族も厳格に法に処され、一族郎党皆殺し。かくして姜維の夢は潰えたのでした。

 

 

『華陽国志』によれば蜀漢再興の為の義戦だったとされていますが、結局のところ真偽は不明。

 

また、『世語』によれば、姜維の遺体を切り裂いたところ、そこから出た肝は一升ほどの大きさだったとか何とか。

 

 

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北伐の是非

 

 

 

とまあこのように、割と本気で詰みだった状況下で散々に暴れ回るというトンデモな大立ち回りを見せた姜維。イケメン魂かクズかというのは置いておくとして、きわめて有能な軍人であったという点だけは評価として間違いないでしょう。

 

結果論でいえばマイナスにしかならない行動だったの一言に尽きますが、姜維の北伐には大きな問題が常に付きまといました。

 

 

まず、絶望的な蜀の情勢。そもそも蜀は夷陵の戦いによって将来を背負う人材の大半を消失。おまけに複数あれば隙を突けたであろう北伐ルートも雍、涼州ルートという、ザックリ見ればたった一つといえなくない道筋に限られていました。

 

蜀が攻めてくるのがたった1方面であることによって、随分と魏の対蜀戦線は楽になった事でしょう。一応は同盟国の呉がいますが、あちらはあくまで他国に過ぎず、過度な連携は期待できないと思って間違いありません。

 

さらには諸葛亮が死亡したことによる、国家の全般を担える万能な人材の枯渇。これも蜀にとってはかなりの痛手となったようで、その後は蒋琬、費禕と大物が死ぬたびに人材の劣化が著しくなっていきました。

 

そんな中、よりによって他所からの降伏者である姜維を軍事のトップに据えたのですから、その苦労のほどは計り知れません。

 

 

 

また、そんな余所者の立場も、姜維にとっては少なからぬ足かせになっていたようです。

 

郷土愛の強い中国において、余所者が自分たちの国を取り仕切るというのは面白くありません。諸葛亮らは荊州出身者や「初代皇帝の代からの臣下」という立場があり、その支持者も多かったと言えるでしょう。

 

 

しかし姜維はというと、敵地である涼州の出身で、後ろ盾などどこにもなし。地味かもしれませんが、これは当時の中国の重臣としては致命的です。

 

このデメリットは姜維の北伐によって国力低下が見られてからはより顕著に現れており、延煕19年(256)の後にいう段谷の戦いでは味方が合流の約束を反故。鄧艾によってボコボコにされる要因の一つとなっています。

 

 

また、最後の方には閻宇の推挙など、露骨に中央政府で姜維潰しが行われており、姜維はその後成都に二度と戻らなかったとされているほど、姜維の敵は多かったのです。

 

実際、姜維の北伐が本格的に被害を増すばかりになったのも、やはり姜維を潰そうという声が上がってから。もしかしたら、姜維の北伐は自分の身を守るために敵国に逃げ込んだという意図もあったのかもしれませんね。

 

 

とはいえ、やはり姜維が国を荒廃させたという結果は無視できない事実でしょう。実際に蜀の中でもいろいろと問題視されており、張翼(チョウヨク)や廖化(リョウカ)といった将軍からも批判は出ており、姜維による北伐の激しさは、本人の立場による名誉棄損だけで済まされないものだったようです。

 

三国志を編纂した陳寿は、最後に姜維をこう評しています。

 

 

文武両面を兼ね備えて功名を志したが、軍を軽く扱って無暗に外征をし、明晰な判断を十分にめぐらすことができなかったために最後は破滅を招き寄せた。

 

 

裴松之は姜維に基本好意的なのに加え、一緒に評価された蒋琬や費禕に対する批判には反論していますが……この姜維への評にはコメントを残していません。

 

 

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実は野心家?

 

 

 

さて、元蜀の臣下である郤正(ゲキセイ)は、姜維の良いところを論文で以下のように書き記しています。

 

 

姜維は重役であったが質素な生活をしており、側室も贅沢も一切しなかった。財産も特に倹約しなければ贅沢もせず、基本的に部下へと流していった。

 

この行動は欲深な者へのあてつけでも努力しての禁欲でもない。ただそれで十分だったのだ。

 

 

姜維は失敗者として強く非難されているが、十分に規範的といえる生活態度だった。

 

 

このように、私生活では多くを望んでとことん財を食いつぶすような人物ではなかったのです……が、そんな姜維にも、なんというか微妙に黒い風聞がついて回ります。

 

 

その名も、姜維野心家説。

 

 

本文においては、「西方の風俗を熟知しているという自負があり、軍才があると自負していた」とあり、実際にかなりの自信家であったことが伺えます。

 

また、『傅子』には「功名の樹立を好み、密かに決死隊を育て、庶民の生業に携わらなかった」とあり、これはプライドと野心の高い人物の特徴といってもよいでしょう。

 

 

極めつけには、孫盛の『雑記』にある文章。

 

 

諸葛亮の元に向かってしばらく母とも離れ離れになったが、後年母からも手紙が届くようになった。

 

母は姜維に「家に帰ってきなさい」と連絡したものの、姜維は「良い待遇を得られれば昔の待遇には戻ろうと考えないものですし、未来に希望を持つ者は郷愁の念など持たないのです」と返答し、帰ろうとしなかった。

 

 

特に孫盛は「一度貰った魏の禄を忘れる忘恩の徒」と言い放つほどの姜維嫌いなので、信じる神事内に関してはアレですが……少なくとも、姜維はこんな感じで大きな野心を持った人物というのはほぼ間違いないでしょう。

 

 

とはいえ、その心の底はわからぬもの。結局蜀に尽くしたのは忠義のためか自分のためか、最期に鍾会と謀反を起こしたのも野心が先行したか、野心と共に蜀を思う気持ちもあったか……

 

結局、その心根は史書からは測る事ができません。

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