【于禁伝2】疫病神呼ばわりとはな……


このエントリーをはてなブックマークに追加

【于禁伝2】降伏ひとつで疫病神か……

 

 

 

 

厳しすぎる人物評

 

 

 

さて、そんな于禁を、三国志を歴史として編纂した陳寿が表した言葉がこちら。

 

于禁は、張遼、楽進、徐晃、張郃と共に一流の名将として、先陣や殿軍を代わる代わるに任されるほどに信頼された。

 

この中でも于禁の軍勢は厳然としており、敵の宝物を奪取しても個人の懐に入れることがなく、清廉潔白そのもの。そのため恩賞も非常に厚いものだった。

 

 

しかし、于禁自身は厳然としすぎるあまり周りから恐れられ、法と規律に厳しくし過ぎたために民心や兵の心をつかめなかった。

 

 

 

つまり清廉潔白で公平無私な人となりでしたが、潔癖症過ぎて人からのウケは悪かったというわけですね。

 

 

朱霊(シュレイ)という人が曹操から軍権を取り上げられた際に、于禁が朱霊の軍を吸収したという逸話がありますが……この時も朱霊以下、誰もがあえて逆らわなかった辺り、その名声……というか威名は圧倒的だったのでしょう。

 

が、やはり「怖がられるだけで愛されていなかった」というのは、やはりこういった逸話からも伝わってきますね……

 

 

過ぎたるは及ばざるがごとしと言いますが、于禁の場合は自他に厳しすぎるあまり、「自分に優しく人に厳しいゴミのような人物像」をあてがわれてしまったわけです。

 

 

その結果、三国志に注釈や信憑性を度外視した逸話なんかも取り入れて話を膨らませ、昨今に三国志を広めた裴松之は于禁についてこう語っています。

 

法律で許されないからと言って、友人を殺人欲のままに殺したような奴には、厲侯なんて諡はお似合いだ

 

かなりかみ砕いた言い方ですが……本当にこういう評価を下されているのだから救いがありません。

 

ようは、「殺人欲に溺れて友達すらも平気で殺すサイコパス野郎」と……。

 

 

もっとも、裴松之の意見は妙に偏っていることがあるというか……一部の人物を、まるで史書を無視したような貶め方をすることがしばしばあります。この辺は本人の主観か、はたまた当時のお国柄によって無理矢理言わされただけかははかり知れませんが……

 

 

何にせよ、厳然粛然とした態度を自ら取る、自分にも人にも厳しすぎる性格が災いし、最期の最期で彼を恐れていた人々から手のひらを返された感じはあります。

 

 

自身の降伏を最後まで恥じたり、散々抽象してきた虞翻をむしろ評価するような言い回しをしたりなど、根は繊細な善人のような部分が見え隠れしますが……

 

厳粛さを盾に好き勝手した器の小さいクソ野郎か、はたまた厳格さの裏の優しさと繊細さを誰にも悟られなかった哀れな人格者かは、その人の解釈に委ねられるのでしょうね。

 

 

樊城でろくに戦わず(戦えず)に降伏した彼の心情は、如何なものだったのか……

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

守戦の達人?

 

 

 

最後の樊城での失態のせいでその指揮能力や将軍としての資質までも完全否定されることの多い于禁ですが……記述を辿ると、防戦では負けなしと言ってもいいのではないかという活躍を見せています。

 

 

例えば官渡の戦い。袁紹は今でこそ過小評価され、「大したことのない血筋だけのゴミ」なんて言われることも多いですが、実際には群雄として間違いなくトップクラスの資質を持った英傑でした。

 

また、公孫瓚(コウソンサン)との戦いでも難攻不落と呼ばれた易京(エキキョウ)の城を落とすなど、攻城戦にも長けていたのです。

 

 

そんな袁紹指揮する攻撃軍が官渡に総攻撃をかけた時、守勢において主力となったのは于禁。彼の部隊が力戦奮闘したのもあって、物資不足と恐慌状態で壊滅寸前だった曹操軍が踏みとどまったと言われています。

 

 

他にも、張繍の突然の奇襲にも見事な撤退戦を繰り広げたり、夜襲部隊に襲撃を受けた時も直属兵を指揮して逆に大将を討ち取ったりと、間違いなく並大抵の武将ではないのは確かです。

 

 

 

それだけに、最後にあのような結果になったのは残念でなりません。

 

 

 

ちなみに于禁の後は子供の于圭(ウケイ)がさも当然のように引き継いでおり、曹丕による嫌がらせでの死亡説は眉唾という意見もあったりなかったり……

于禁,魏,命乞い,降伏,厳しい   于禁,魏,命乞い,降伏,厳しい   

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連ページ

【于禁伝1】運気はまさにジェットコースター
なんでこんなに叩かれるのか……いや、理由は明白ですがね。

ホーム サイトマップ
お問い合わせ