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劉備の蜀取り
さて、赤壁の戦いにより曹操の脅威がなくなった孫権と劉備。
特に劉備にとっては非常に大きな転機となったようで、孫権軍から借り受けた南群という土地を基盤に、またたく間に荊州の長江以南を制圧してしまいました。
その後劉備は、いよいよ後に蜀の本拠地となる益州へと食指を伸ばします。
この益州の地には同性の劉家が割拠しており、当主である劉璋(リュウショウ)という人は長い間、益州北部の漢中に一大宗教勢力を持つ張魯(チョウロ)という人と争っていました。
劉備はそんな情勢を利用し、最初は劉璋に味方してその勢力圏に侵入。その後しばらくすると反旗を翻して劉璋軍の主力部隊を率いる武将を殺害、各地を攻略しつつ彼の本拠である成都へと迫ります。
途中劉璋軍の激しい抵抗に遭い、実に1年以上の時間を費やしてしまいましたが、結局は劉璋を下し、ついに劉備は故郷から遠く離れた益州の地に寄る辺を得たのです。
三勢力の鼎立
一方の曹操軍は、孫権軍の猛攻を勢力の境にある合肥周辺で防ぎながらも、反乱を起こした馬超率いる西の勢力を苦戦しつつも撃破(潼関の戦い)。さらには漢中の張魯も下し、(陽平関の戦い)版図を拡大。赤壁の戦いの敗北により南への侵攻は先延ばしとなりましたが、それでも順調にその勢いを取り戻しつつあったのです。
ここにきて、蜀を取った劉備との国境線が完全に接し、曹操、劉備、孫権の三人の勢力は完全に隣接し合うようになりました。
以後は劉備、孫権共に曹操軍としのぎを削るように動き、曹操は完全に戦力を二分しての戦いを強いられるに至ったのです。
濡須口、定軍山の戦い
さて、まず孫権軍と曹操の戦いから。
もともと中国大陸南東の揚州を勢力に持つ孫権は、常に広大な長江を防壁代わりに、曹操と一進一退の戦いを繰り広げていました。
これは長江を防壁として機能させたいと考えた孫権と、そんな孫権を危険視する曹操の本格的なぶつかり合いの様相を見せていたといわれています。
特に曹操軍の兵力は赤壁の戦い以上の数とも言われており、双方総力戦の様相を見せていました。
後に大きな動きが見えるまでの間に、主に2回この戦いは起きていますが、どちらも孫権軍の武将である呂蒙、甘寧、徐盛らの知勇兼備の働きにより曹操軍を撃退することに成功。
最後は孫権が有利な条件で曹操と講和し、この熾烈な戦いは幕を引いています。
一方、劉備と曹操も、漢中をめぐって争いを繰り広げていました。
漢中は曹操軍の名将である夏侯淵、張?らが死守していましたが、劉備軍の法正らの知略により夏侯淵は戦死。残った曹操軍も積極的な戦闘行動はとれなかった様子。
結局、曹操自らが漢中の奪還に動きますが、劉備は大軍を率いる曹操軍を相手に積極的に前に出ず持久戦を展開。
曹操は決定打を欠いたまま、大軍の上地の利を敵に奪われた状態では勝てないとみて撤退。こうして、劉備は益州の玄関口ともいえる漢中を奪取したのです。
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