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黄巾の乱
三国志の始まりは、後漢と呼ばれる国が滅ぶ前の、末期時代から始まります。
「宦官」と呼ばれる官吏が漢王朝の実権を握り好き勝手やっていたため、漢という国の末期は、大変大きく荒れていました。
そんな中で、民衆や領主たちは不満をどんどんため込んでいき、特に領主や豪族、政治基盤を持った有名人らの多くは、中央政府を嫌って田舎へと疎開していきました。
残された権力者たちも、みな宦官に媚びるか、あるいは逆らって殺されるかという悲惨なありさま。
そんな中で、逃げることができなかった国民たちは次々と死に絶え、すがるべき救いを求めていたのです。
そしてその結果、張角(チョウカク)という人が民衆を従えて一斉蜂起し、これが後に黄巾の乱と呼ばれる超大規模な宗教テロへと発展したのです。
張角自身は反乱を起こしたのちにまもなく病死。その弟たちも反乱勢力内でのごたごたで亡くなって、この黄巾の乱は数年で収まりましたが、この時の反乱勢力はまだ各地に多く散らばっており、国は一層荒れ果てていきました。
国の混乱と董卓の台頭
何とか反乱を収めた漢の中央も、大将軍である何進(カシン)が宦官の手で殺されたり、その宦官たちが反発派の面々に大粛清されたりと、大変荒れ果てていました。
そんな中、その混乱の隙をついて、一気に中央政府を制圧した人物が現れました。
その人物の名前は董卓(トウタク)。彼は辺境出身の将軍でしたが、この電撃的な動きにより、一気に天下を奪い取ったのです。
しかし、中国史上、どうにも身分の知れない辺境の出身者は忌み嫌われる立場にあり、董卓もその例外ではありませんでした。
そのため思うように政治が進まなかったとされています。
そして何より董卓自身も辺境の荒っぽい気性を持った人物であったため、色々と横暴を働いたために、余計人の心は離れてしまったとされています。
これらの要因から董卓を嫌い出て行く権力者も多く、また董卓自身も、そういった人物を危険視して地方に封じ込めていったのですが、これが後々、自身の首を絞めることにつながっていったのです。
董卓の衰退、そして滅亡
さて、董卓の横暴や卑しい身分などといった要因から、周囲では「排除すべし」といった意見や動きが多くみられるようになってきます。
そして、橋瑁(キョウボウ)という人の呼びかけにより(演義では曹操によるもの)、付近の群雄のほとんどは反董卓の名目のもと、終結したのです。
しかし、反董卓連合も一枚岩ではなく、数に劣るはずの董卓軍相手に苦戦を強いられ、結局双方苦しいままに一進一退といった形勢に持ち込まれてしまいます。
しかし、そんな中、後に呉の皇帝孫権(ソンケン)の父親となる孫堅(ソンケン)が善戦し、董卓軍を押し上げるようになります。
その結果、董卓はなんと都である洛陽(ラクヨウ)を焼き払い、そのまま西の長安(チョウアン)へと逃げ去ってしまいました。
この動きの結果「大悪党・董卓から漢の都を取り戻す」という連合の大義名分は完全に消え去ってしまい、連合は自然消滅。そこから群雄割拠の時代へと突入していったのです。
さて、都を逃れた董卓ですが、結果的に洛陽を焼き払う作戦は成功で、この後も栄華をほしいままにしました。が、これらの動きに耐えかねた「反董卓派」の活動により義理の息子・呂布(リョフ)が離反。そのまま息子によって殺されるという末路をたどり、董卓軍もそのまま滅亡してしまったのでした。
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